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「名張毒ぶどう酒事件」 [事件・事故]

10月4日(日)

「名張毒ぶどう酒事件」の奥西勝死刑囚(89歳)が八王子医療刑務所で肺炎のため死去した。

「名張毒ぶどう酒事件」は昭和の事件史では「第二の帝銀事件」と呼ばれている。
毒薬を使った大量殺人事件、死刑判決後に繰り返された再審請求、死刑確定囚の長期拘留、そして死刑未執行の末の病死、ほんとうによく似ている。

ただ、犯行の状況はかなり違う。
「帝銀事件」(1948年、12人殺害)が東京という大都会(豊島区椎名町)で起こったのに対し、「名張毒ぶどう酒事件」(1961年3月28日、5人殺害)は、三重・奈良県境の小さな集落(三重県名張市葛尾)で起こった。
「帝銀事件」の場合、犯人とされた平沢貞通以外にも犯行が可能な人間は数多くいたが、「名張毒ぶどう酒事件」は全27戸100人ほどの村の出席者32人の集会(農村生活改善クラブ「三奈の会」の総会の後の懇親会)が現場で、犯行が可能な人間は極めて限られていた。

警察は出席者の男性3人を重要参考人として取り調べ、そこから、ぶどう酒を集会場に運んだ奥西勝に絞っていった。
なぜなら、死亡した被害者の中に、奥西の妻と愛人(近隣の未亡人)がいたことから「三角関係の清算」が動機と考えられたからだ。
実際、奥西と未亡人との性的関係は、村人に目撃され、妻にも知られ、泥沼状態になっていた。

つまり、犯行の機会と動機という点で、奥西が犯人として最有力視される状況があった。
そして、犯行から6日後の4月3日、奥西は取り調べ中に犯行を自白して逮捕される。
しかし、逮捕後の取り調べで奥西は否認に転じる。

裁判では、1審津地方裁判所は無罪、2審名古屋高等裁判所で死刑、そして1972年6月15日、最高裁は被告側の上告を棄却して死刑が確定した。
心証は黒だが、物証に乏しい事件で、判決が揺れ動いた。

再審請求の経緯は、ややこしいので年表を参照のこと。
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私見では、唯一の確定的な物証とされたワインの王冠の歯型鑑定が揺らいだ2審の名古屋高裁の段階で「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に従って無罪にすべきだったと思う。
ただ、それは必ずしも奥西がシロであることを意味しない。
状況証拠と自白に頼り、物証を疎かにする捜査で、5人を毒殺した凶悪な真犯人が闇に消えてしまったことが残念だ。
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