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3月5日(水)前期難波宮の年代について [お仕事(古代史)]

3月5日(水)
8時、起床。
朝食は、グレープフルーツデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
黒地に白で唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黒のボア襟のポンチョ。
9時55分、家を出る。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
前期難波宮出土の柱根が、最新手法の年代測定で7世紀前半の伐採であることが明らかになったことについて解説。
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難波宮出土の柱、7世紀前半に伐採  最新手法で年代測定
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難波宮跡で出土した柱材。根元の部分が残っていた=大阪府文化財センター提供
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大阪市の難波宮(なにわのみや)跡(国史跡)で10年前に出土した柱材を、年輪に含まれる酸素同位体の比率を調べる最新の年代測定法で調べたところ、7世紀前半に伐採されたことがわかった。大阪府文化財センターが24日発表した。有名な遺跡の出土品が、この手法で年代測定されたのは初めて。柱材は、孝徳天皇が645年から建設した前期難波宮のものである可能性が強まった。
柱材は2004年、大阪府警本部の新築工事に伴う発掘調査で出土。東西に並んだ三つの柱穴のうち、二つに針葉樹とみられる柱の根元部分が残っていた。年輪が粗いため、年輪幅の変動を調べる従来の方法が使えず、飛鳥時代の前期難波宮のものか、奈良時代の726年から聖武(しょうむ)天皇が整備した後期難波宮のものかがはっきりしなかった。
総合地球環境学研究所(地球研、京都市)は年輪に含まれる酸素同位体の比率が1年ごとにどう変化するかを調べ、標準的な変動パターンと照合して年代を割り出す測定法を研究している。この手法で2本の柱材を測定した結果、最も外側の年輪は583年と612年を示した。年輪の状態から612年の年輪は樹皮に近いとみられ、数十年分は加工の際に削られたと考え、ともに7世紀前半に伐採されたと推定した。
センターの担当者は「柱列は過去の調査成果から推定された前期難波宮の北辺と一致しており、宮の南北の範囲がほぼ確定するだろう」という。
柱材は3月4日~4月6日、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で展示される。3月15日午後1時半から、同館で研究成果の講演会もある。
■ 酸素同位体の比率に注目
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酸素同位体による年代測定法は、年輪から地球の気候変動を読み解く研究から生まれた、日本独自の技術だ。樹種を問わずに測定でき、遺跡の年代研究の前進が期待される。
この手法は、重さが異なるO16とO18の二つの酸素同位体の比率を測定する。気候が乾燥すると、葉から軽いO16を含む水が多く蒸発し、植物内は重いO18が増える。逆に雨が多い季節にはO18は減る。
地球研の中塚武教授(環境動態解析)は比率の変動から降水量の変化を読み取り、過去の気候変動を研究していた。3年ほど前に年代測定に応用できることに気づき、現代から紀元前600年ごろ(弥生時代前期)までの同位体比の標準的な変動パターンを作成。遺跡出土の木材の年代を割り出せるようになった。
気候が良好な年は年輪の幅が広がることに注目した測定法は、スギやヒノキ、コウヤマキなど針葉樹に限られるが、酸素同位体はどの樹種でも測定可能だ。木材の一部を切り取って分析する必要があるため、重要な文化財には応用しにくいものの、中塚教授は「これまで年輪が少ないため注目されていなかった細い柱材や杭が、年代特定の決め手になる」と話す。(編集委員・今井邦彦)
『朝日新聞』2014年2月25日09時24分
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文献資料に見える難波宮は、孝徳天皇が乙巳の政変の直後に遷都した難波長柄豊碕宮(645年)、天武天皇が683年(天武12年)に副都に指定し、686年(朱鳥元)正月に全焼した天武朝難波宮(683~86)、そして聖武天皇が修造した難波宮(726~784)の3つ。
それに対して、大阪城の南側の法円坂の難波宮遺跡で出土している宮殿の遺構は2つ。
この内、上層遺構の後期難波宮が聖武天皇が修造した難波宮(726~784)であることは異論がない。
問題は、下層遺構の前期難波宮が孝徳天皇の難波長柄豊碕宮なのか、天武朝の難波宮なのか、ということ。
この問題について、考古学者の多くは前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮であり、それが天武朝まで存続し、686年(朱鳥元)に焼失したと考える。
一方、文献史学、とりわけ宮都制の研究者の多くは懐疑的だった。
なぜなら、前期難波宮の構造があまりにも先進的(隋唐的)であり、前後の宮都と比べて革新的すぎたからだ。
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つまり、前期難波宮を孝徳朝に位置づけると(上図)、日本の宮都の構造は、伝統的・素朴な宮の形から孝徳朝に一気に大進歩し、その後の斉明・天智・天武朝ではまた元の形に戻り、持統朝に至ってやっと前期難波宮に近い形に戻ったことになる。
それに対して、前期難波宮を天武朝に位置づけると(前期難波宮を飛鳥浄御原宮と藤原宮の間に移す)、日本の古代宮都の発展は、きわめてスムーズになる。
しかし、2004年、前期難波宮の北西部(正確には北の柵列の外側の谷)から「戊申年木簡」が発見された。
干支と記載内容(「評(こおり)」)からして、戊申年が648年(大化4年)であることは、ほぼ確定的で、前期難波宮が孝徳朝の難波宮である可能性が文献資料的にも高くなった。
それに加えて、今回の、前期難波宮の北外廓に相当する柱列(柵)の柱根の年代測定が600年代前半という
結果が出た。
これによって前期難波宮が孝徳朝の難波長柄豊碕宮である可能性がますます高くなった。
というか、ほぼ確定的になった。
客観的にはそうなのだが・・・、宮都制や宮の構造と密接に関係する律令官人制を勉強して者として、どうしても違和感が残る・・・という話をした。
12時、終了。

昼食は、自由が丘駅南口の「Butcher's (ブッチャーズ)」で、おろしハンバーグランチ(800円)。
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13時、自宅最寄り駅に移動して駅前の「ドトール」で、コーヒーを飲みながら読書。
14時、帰宅。
昨夜の千葉県柏市の「連続通り魔事件」についてリサーチして、ブログに記事をまとめる。
夕食は、牛肉と野菜、それに豆腐の炒め煮(牛丼の具)を作る。
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食後、1時間ほど、仮眠。
お風呂に入って温まる。
久しぶりに早起きしたのでとても眠く、早寝する。
就寝、2時。


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