6月10日(月)初めての沖縄(4日目の2:玉陵・円覚寺) [旅]
6月10日(月)
(続き)
識名園から出て自動販売機でお茶を買って水分補給していたら、喫煙休憩を終えたタクシーの運転手から「これからどちらへ?」と声をかけられた。
これ幸いと「首里に戻って、玉陵までお願いします」と乗り込む。
玉陵(たまうどぅん)は、琉球第2尚氏王統歴代の陵墓。
第3代尚真王(在位1477~1526年)が父の初代尚円王(在位1469~1476年)を移葬するために1501年に建築したもの。
墓域は2442平方mという広大さで、もちろん琉球最大、王の権威の大きさが知られる。
ちなみに、2代尚宣威王(尚真王の叔父)と傍系から即位した7代尚寧王は、ここには葬られていない。
前門。
中庭から。真っ白な珊瑚砂が敷き詰められている。
中庭にある「玉陵碑」。
碑文には尚真王が定めたここに葬られる有資格者の名が刻まれている。
尚真王の他は、その母おぎやか(尚円王の妃)、聞得大君・音智殿茂金 (尚真王の妹)、尚真王の世子(五男・尚清王)、長女、三男、四男、六男、七男の8人で、廃嫡された長男は除かれている。
しかし、尚清王は兄の遺骨をここに移葬した。
全景。
外部は切石積の家型としていて沖縄特有の木造建築のように見えるようにしているので、破風(はふ)墓と呼ばれる。
左から、東室、中室、西室の3つ墓室から構成されている。
東室。
主に歴代の王とその妃が葬られている。
墓室内部は天然の岩壁をくり貫いて造られている。
そこに洗骨された遺骨が蔵骨器に納められてぎっしり並んでいる。
蔵骨器には名が記されているので、誰のものかわかる。
中室。
中室は洗骨するまでの遺体を安置した場所。
ちなみに、洗骨は、多くの場合、女性の役割。
西室。
王および王妃以外の王族の遺骨が安置される。
なお、玉陵に葬られたのは、1931年の尚家20代当主尚典の夫人が最後で、以後、新たな被葬者はいない。21代当主尚昌(1923年没)のお墓は東京にある。
墓域と厳粛な場に、少しユーモラスな感じを添える獅子の彫刻。
東室の上(雌獅子)。
中室の塔の上。
西室の上(雄獅子)。
墓域に入る前に、資料館で玉陵のあらましを学んだが、そもそも、遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨し、洗骨した遺骨を骨壺に収めるという琉球の葬制が、すっかり火葬に慣れてしまった日本本土の人間には異様に感じられる。
こうした葬制は「洗骨再葬」と呼ばれ、現在では南島(奄美・琉球)特有のものとされる。
しかし、弥生時代の中期の東国(関東地方から南東北)に展開する土器墓と呼ばれる葬制は、遺骨を高さ30~40cmの壺型土器に納めて、複数個を竪穴に埋納する形式で、おそらく洗骨した後に再葬したものと考えられ、「洗骨再葬」の葬制は、かっては日本本土にも広く分布していたが、それが本土では非再葬の土葬や仏教流入後の火葬にとって代わられた結果、南島だけに残存した可能性が高いように思う。
玉陵をあとにして、昨日、見られなかった首里城の北側地域を歩く。
龍潭から首里城を望む。
1427年、琉球王国第一尚氏王統・第2代尚巴志王の命により、国相懐機が作庭したといわれる人工の池。1425年、来琉した冊封使が尚巴志王に首里城北に作庭するように勧めたことが作庭のきっかけという。
王命を受けた懐機は明に渡航して各地の池を調査、帰国後作庭に着手。
完成後は、冊封使が来琉した折に、池に龍船を浮かべ船遊び宴が行われた。
池の周囲に緑が多く水面には首里城が映って、琉球第一の名勝地と言われるのも頷ける。
円鑑池(えんかんち)の中央にある弁財天堂で一休み。
円鑑池は1502年に造られた人工池で、首里城や円覚寺からの湧水・雨水が集まり、ここからあふれた水が隣の龍潭(りゅうたん)へ流れていく。
弁財天堂は、円鑑池の中にあり、天女橋が渡されている。
その名の通り航海安全を司る水の女神・弁財天が祀られているが、もともとは、1502年、朝鮮から贈られた方冊蔵経を納めるために建立された。
円覚寺跡。
第二尚氏の菩提寺として1494年(明:弘治7年)に鎌倉の円覚寺を模して建立された。
第二尚氏の庇護を受けて琉球王朝第一の格式を誇る寺院として繁栄した。
寺前にある円鑑池では、中国からの冊封使を招いた宴が行われた。
昭和8年(1933)、仏殿、三門、方丈などの寺の主要伽藍は国宝に指定されたが、沖縄戦で放生橋(ほうじょうばし)を残して全て焼失。
さらに戦後、琉球大学の教員宿舎が建てられ遺跡が破壊された。
昭和43年(1968)に総門が復元され、放生池の修復が行われた。
池の左側に見える石段の上に三門があり、その奥に仏殿などの伽藍があった。
在りし日の円覚寺三門(1935年頃)
放生池に架かる明の石工による石造桁橋。
高欄に「弘治戊午歳」(弘治11年=1498)の銘がある。
沖縄返還後の昭和47年(1972年)、円覚寺唯一の現存構造物として国の重要文化財に指定。
円覚寺跡は中に入って見学できない。
早く、主要伽藍の遺構を整備して、琉球王朝第一の寺院を偲べるようにして欲しい。
ここからは、首里城の外郭を北側から眺めることができる。門は久慶門。
城壁。
沖縄戦で破壊され、わずかに残った部分と修復・再建された部分がよくわかる。
東のアザナ(物見台)遠望。
南国の花。
オレンジ色のハイビスカス
黄色い花は、オオバナアリアケカズラ(キョウチクトウ科)
真っ赤なハイビスカスが南国の青空に映える。
気温は昨日ほどではないが、やはり日差しがきつい。
少し疲れてきたし、お腹も空いた。
昨日、見残したところをほぼ回れたので、13時40分、モノレールで首里をあとにする。
(続く)
(続き)
識名園から出て自動販売機でお茶を買って水分補給していたら、喫煙休憩を終えたタクシーの運転手から「これからどちらへ?」と声をかけられた。
これ幸いと「首里に戻って、玉陵までお願いします」と乗り込む。
玉陵(たまうどぅん)は、琉球第2尚氏王統歴代の陵墓。
第3代尚真王(在位1477~1526年)が父の初代尚円王(在位1469~1476年)を移葬するために1501年に建築したもの。
墓域は2442平方mという広大さで、もちろん琉球最大、王の権威の大きさが知られる。
ちなみに、2代尚宣威王(尚真王の叔父)と傍系から即位した7代尚寧王は、ここには葬られていない。
前門。
中庭から。真っ白な珊瑚砂が敷き詰められている。
中庭にある「玉陵碑」。
碑文には尚真王が定めたここに葬られる有資格者の名が刻まれている。
尚真王の他は、その母おぎやか(尚円王の妃)、聞得大君・音智殿茂金 (尚真王の妹)、尚真王の世子(五男・尚清王)、長女、三男、四男、六男、七男の8人で、廃嫡された長男は除かれている。
しかし、尚清王は兄の遺骨をここに移葬した。
全景。
外部は切石積の家型としていて沖縄特有の木造建築のように見えるようにしているので、破風(はふ)墓と呼ばれる。
左から、東室、中室、西室の3つ墓室から構成されている。
東室。
主に歴代の王とその妃が葬られている。
墓室内部は天然の岩壁をくり貫いて造られている。
そこに洗骨された遺骨が蔵骨器に納められてぎっしり並んでいる。
蔵骨器には名が記されているので、誰のものかわかる。
中室。
中室は洗骨するまでの遺体を安置した場所。
ちなみに、洗骨は、多くの場合、女性の役割。
西室。
王および王妃以外の王族の遺骨が安置される。
なお、玉陵に葬られたのは、1931年の尚家20代当主尚典の夫人が最後で、以後、新たな被葬者はいない。21代当主尚昌(1923年没)のお墓は東京にある。
墓域と厳粛な場に、少しユーモラスな感じを添える獅子の彫刻。
東室の上(雌獅子)。
中室の塔の上。
西室の上(雄獅子)。
墓域に入る前に、資料館で玉陵のあらましを学んだが、そもそも、遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨し、洗骨した遺骨を骨壺に収めるという琉球の葬制が、すっかり火葬に慣れてしまった日本本土の人間には異様に感じられる。
こうした葬制は「洗骨再葬」と呼ばれ、現在では南島(奄美・琉球)特有のものとされる。
しかし、弥生時代の中期の東国(関東地方から南東北)に展開する土器墓と呼ばれる葬制は、遺骨を高さ30~40cmの壺型土器に納めて、複数個を竪穴に埋納する形式で、おそらく洗骨した後に再葬したものと考えられ、「洗骨再葬」の葬制は、かっては日本本土にも広く分布していたが、それが本土では非再葬の土葬や仏教流入後の火葬にとって代わられた結果、南島だけに残存した可能性が高いように思う。
玉陵をあとにして、昨日、見られなかった首里城の北側地域を歩く。
龍潭から首里城を望む。
1427年、琉球王国第一尚氏王統・第2代尚巴志王の命により、国相懐機が作庭したといわれる人工の池。1425年、来琉した冊封使が尚巴志王に首里城北に作庭するように勧めたことが作庭のきっかけという。
王命を受けた懐機は明に渡航して各地の池を調査、帰国後作庭に着手。
完成後は、冊封使が来琉した折に、池に龍船を浮かべ船遊び宴が行われた。
池の周囲に緑が多く水面には首里城が映って、琉球第一の名勝地と言われるのも頷ける。
円鑑池(えんかんち)の中央にある弁財天堂で一休み。
円鑑池は1502年に造られた人工池で、首里城や円覚寺からの湧水・雨水が集まり、ここからあふれた水が隣の龍潭(りゅうたん)へ流れていく。
弁財天堂は、円鑑池の中にあり、天女橋が渡されている。
その名の通り航海安全を司る水の女神・弁財天が祀られているが、もともとは、1502年、朝鮮から贈られた方冊蔵経を納めるために建立された。
円覚寺跡。
第二尚氏の菩提寺として1494年(明:弘治7年)に鎌倉の円覚寺を模して建立された。
第二尚氏の庇護を受けて琉球王朝第一の格式を誇る寺院として繁栄した。
寺前にある円鑑池では、中国からの冊封使を招いた宴が行われた。
昭和8年(1933)、仏殿、三門、方丈などの寺の主要伽藍は国宝に指定されたが、沖縄戦で放生橋(ほうじょうばし)を残して全て焼失。
さらに戦後、琉球大学の教員宿舎が建てられ遺跡が破壊された。
昭和43年(1968)に総門が復元され、放生池の修復が行われた。
池の左側に見える石段の上に三門があり、その奥に仏殿などの伽藍があった。
在りし日の円覚寺三門(1935年頃)
放生池に架かる明の石工による石造桁橋。
高欄に「弘治戊午歳」(弘治11年=1498)の銘がある。
沖縄返還後の昭和47年(1972年)、円覚寺唯一の現存構造物として国の重要文化財に指定。
円覚寺跡は中に入って見学できない。
早く、主要伽藍の遺構を整備して、琉球王朝第一の寺院を偲べるようにして欲しい。
ここからは、首里城の外郭を北側から眺めることができる。門は久慶門。
城壁。
沖縄戦で破壊され、わずかに残った部分と修復・再建された部分がよくわかる。
東のアザナ(物見台)遠望。
南国の花。
オレンジ色のハイビスカス
黄色い花は、オオバナアリアケカズラ(キョウチクトウ科)
真っ赤なハイビスカスが南国の青空に映える。
気温は昨日ほどではないが、やはり日差しがきつい。
少し疲れてきたし、お腹も空いた。
昨日、見残したところをほぼ回れたので、13時40分、モノレールで首里をあとにする。
(続く)
2013-06-10 23:28
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