6月10日(月)初めての沖縄(4日目の1:識名園) [旅]
6月10日(月) 晴れ 那覇 28.5度 湿度67%(15時)
7時、起床(ホテルJALシティ那覇)。
ぐっすり眠って睡眠不足、解消。
ただ、昨日の下り坂歩きで、足が痛い。
シャワーを浴びて、髪を洗い、よくブローしてあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
白と黒のアニマル模様のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
9時過ぎ、ホテルのレストランで、朝食(バイキング)。
今日も和食(おかずは沖縄料理)。
10時、チェックアウト。
ロビーに蚊が飛んでいる以外は、まずまず良いホテルだった。
モノレールの県庁前駅まで歩き、荷物をコインロッカーに預けて、また一日乗車券を買って、首里行に乗車。
モノレールから首里城が遠望できる。
終点の首里駅で下車。
タクシーで識名園(しきなえん)に向かう。
識名園(那覇市識名)は、かって「識名の御殿(しちなぬうどぅん)」と呼ばれた琉球王家の別宅。
首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれた。
琉球第二尚氏王朝、尚穆王(在位1752~1795年)の時代に造園が始められ、完成したのは尚温王(在位1795~1802)代の1799年。
中国庭園と沖縄独自の様式の折衷様式で、王とその一家の保養の場であるとともに、中国皇帝からの冊封使をもてなす迎賓館として使われた。
入口を入ってすぐの「番屋」(管理人の住居)。
番屋と言っても、ちゃんとした住宅建築。
かなり日本住宅の影響が強い。
王様や冊封使が通った正門。
意外に簡素である。
正門からのびる石畳道。
右へ曲がっているが、実は左方向に行った方が御殿(うどぅん)は近い。
わざわざ遠回りして敷地を広く見せる工夫らしい。
やがて、視界が開けて、亜熱帯の常緑樹の間に池が見えてくる。
「育徳泉(いくとくせん)」。
泉の後方に2つの碑が立っている。
右が、1800年(清:嘉慶5年)、尚温王を冊封した時の正使趙文楷(ちょうぶんかい)が題した「育徳泉」碑。
左が、1838年(清:道光18年)、尚育王の時の冊封正使林鴻年(りんこうねん)の「甘醴延齢(かんれいえんれい)」碑。
御殿(うどぅん)。
御殿の屋根。赤褐色の琉球瓦が南国の青い空によく映る。
御殿から眺めた庭。
全体の構成は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ日本的な「池泉廻遊式庭園」だが・・・。
池中の中の島に立つ六角堂はまったく中国様式。
3つある石橋も、中央が高くなったアーチ型の中国風。
かって冊封使を迎えた「一番座」(古写真)。
今はなんの調度もなく殺風景で寂しい。もう少し復元してもいいのではないだろうか?
御庭を散策。
一の橋。中国の名石、太湖石(たいこせき)を模した多孔質の琉球石灰岩を使っている。
二の橋。琉球石灰岩の切石で組んだアーチ橋。
池の対岸から御殿の全景。
御殿は琉球建築、六角堂と石橋は中国様式だが、全体的な印象は同時代の日本の大名庭園とそれほど差はない。
築山の裏手の滝口。
池からの排水が石樋で落下する。
船揚げ場。御殿から見えない場所にある。
尚育王の冊封正使林鴻年が「勧耕台」と名付けられた展望台から南部を眺望。
冊封使に海が視界に入らない景色を見せることで、琉球の国土を実際より大きく見せるためとも言われている。
高台の庭。バナナ園の跡。
これは、どう見ても椰子の木。
これも熱帯の樹木だと思う。
日本本土の庭園では見られない植物が繁茂している。
帰り道にあるデイゴの大木。
様式は日本の大名庭園だが、植生は明らかに違う。
琉球は亜熱帯気候だから当然なのだが、そこらへんの違和感と言うか、不思議な感覚がずっとつきまとった。
日本的なものと、南国(異国)的なものが不思議な融合をしていて、それが琉球の独特の魅力になっているように思う。
(続く)
7時、起床(ホテルJALシティ那覇)。
ぐっすり眠って睡眠不足、解消。
ただ、昨日の下り坂歩きで、足が痛い。
シャワーを浴びて、髪を洗い、よくブローしてあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
白と黒のアニマル模様のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
9時過ぎ、ホテルのレストランで、朝食(バイキング)。
今日も和食(おかずは沖縄料理)。
10時、チェックアウト。
ロビーに蚊が飛んでいる以外は、まずまず良いホテルだった。
モノレールの県庁前駅まで歩き、荷物をコインロッカーに預けて、また一日乗車券を買って、首里行に乗車。
モノレールから首里城が遠望できる。
終点の首里駅で下車。
タクシーで識名園(しきなえん)に向かう。
識名園(那覇市識名)は、かって「識名の御殿(しちなぬうどぅん)」と呼ばれた琉球王家の別宅。
首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれた。
琉球第二尚氏王朝、尚穆王(在位1752~1795年)の時代に造園が始められ、完成したのは尚温王(在位1795~1802)代の1799年。
中国庭園と沖縄独自の様式の折衷様式で、王とその一家の保養の場であるとともに、中国皇帝からの冊封使をもてなす迎賓館として使われた。
入口を入ってすぐの「番屋」(管理人の住居)。
番屋と言っても、ちゃんとした住宅建築。
かなり日本住宅の影響が強い。
王様や冊封使が通った正門。
意外に簡素である。
正門からのびる石畳道。
右へ曲がっているが、実は左方向に行った方が御殿(うどぅん)は近い。
わざわざ遠回りして敷地を広く見せる工夫らしい。
やがて、視界が開けて、亜熱帯の常緑樹の間に池が見えてくる。
「育徳泉(いくとくせん)」。
泉の後方に2つの碑が立っている。
右が、1800年(清:嘉慶5年)、尚温王を冊封した時の正使趙文楷(ちょうぶんかい)が題した「育徳泉」碑。
左が、1838年(清:道光18年)、尚育王の時の冊封正使林鴻年(りんこうねん)の「甘醴延齢(かんれいえんれい)」碑。
御殿(うどぅん)。
御殿の屋根。赤褐色の琉球瓦が南国の青い空によく映る。
御殿から眺めた庭。
全体の構成は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ日本的な「池泉廻遊式庭園」だが・・・。
池中の中の島に立つ六角堂はまったく中国様式。
3つある石橋も、中央が高くなったアーチ型の中国風。
かって冊封使を迎えた「一番座」(古写真)。
今はなんの調度もなく殺風景で寂しい。もう少し復元してもいいのではないだろうか?
御庭を散策。
一の橋。中国の名石、太湖石(たいこせき)を模した多孔質の琉球石灰岩を使っている。
二の橋。琉球石灰岩の切石で組んだアーチ橋。
池の対岸から御殿の全景。
御殿は琉球建築、六角堂と石橋は中国様式だが、全体的な印象は同時代の日本の大名庭園とそれほど差はない。
築山の裏手の滝口。
池からの排水が石樋で落下する。
船揚げ場。御殿から見えない場所にある。
尚育王の冊封正使林鴻年が「勧耕台」と名付けられた展望台から南部を眺望。
冊封使に海が視界に入らない景色を見せることで、琉球の国土を実際より大きく見せるためとも言われている。
高台の庭。バナナ園の跡。
これは、どう見ても椰子の木。
これも熱帯の樹木だと思う。
日本本土の庭園では見られない植物が繁茂している。
帰り道にあるデイゴの大木。
様式は日本の大名庭園だが、植生は明らかに違う。
琉球は亜熱帯気候だから当然なのだが、そこらへんの違和感と言うか、不思議な感覚がずっとつきまとった。
日本的なものと、南国(異国)的なものが不思議な融合をしていて、それが琉球の独特の魅力になっているように思う。
(続く)
2013-06-10 23:25
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0