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性自認と性他認のフィードバック、そしてXジェンダー―「ジェンダー論」のコメント票から(7)― [お仕事(講義・講演)]

5月23日(金)
「『性』の4要素論」の講義の中で、性自認と性他認のフィードバック(相互関係)について説明する。

性自認が性の自己認識であるのに対し、性他認とは他者によって与えられる性別認識である。

両者の関係を、MtF(Male to Female)を例に具体的にいえば、
自分が女だと思うから(性自認)、女としての外観を作り(性別表現)、女として振る舞う(性役割)。
それを見た周囲の人が女として認識し、女として扱う(性他認)。
社会の中で女として扱われることで、自分が女であることが確認される(性自認の補強)。
さらには、社会の中で女として有り続けなければならなくなる(性他認の縛り)。

つまり、性自認に基づき、身体的性によって確認されて獲得された社会的性(ジェンダー)が、社会の中で機能することによって、他者の性別認識(性他認)が与えられ、それによって性自認はさらに補強されていく。

逆に言えば、女性としての社会的認知(性他認)を得るためには、「私は女性です」と性自認を主張するだけでは不十分であり、Doing Female Genderをするとともに、ある程度(完璧でなくてもいい)、女性に見える外貌(性別表現)を獲得することが必要になる。
なぜなら、女性に見えない人を女性として認識するのは一般的にかなり困難なことであり、それを一方的に強く求めることは、性自認の押し付けになりかねないからだ。

こうした解説に対する、FtXっぽい学生さんの感想。
「社会的性(ジェンダー)は自ら決められるものではないのではないでしょうか」

この学生さんは「性自認は女性のはず」なのだが、その男性的な外貌から、女子トイレでしばしば奇異の目で見られる。
その場合、開き直って女子トイレを使い続けるべきか、男らしくふるまって男子トイレに入るべきか、悩んでしまう。
そして、他者から男と見られるか、女と見られるかによって、自分の性自認が揺らぐのを感じる。
その結果が、上記の感想である。

性他認が人のジェンダーをすべて決するというのは考え過ぎだろう。
しかし、性自認の主張に限界があることは確かだ。
早い話、性自認の主張が機能するのは、言葉で伝えられる友人・知人の範囲内に止まる。
しかし、社会の中では、性自認を言葉として伝えられない見ず知らずの人からも性別を認識される。
そうした他人に、性自認をいちいち伝えてまわるわけにはいかない。
だから、目で見てすぐにわかるように、MtFやFtMの人は認識してもらいたいジェンダー記号を身に着けて、可視的な性別表現をする。
そうしたジェンダー記号に着目して、人は視野の中にある人を「男性」、「女性」、あるいは「男性をしようとしている人」、「女性をしようとしている人」というように認識をする(性他認を与える)。
性他認は性自認よりもっと男女二元的で、ほとんどの人は単純に男女どちらかに分類したがる。
Xジェンダーの人のような明確なジェンダー記号を避けている人には性他認が与えにくい。
だから人は困惑し、そして警戒する。
性別二元制社会の中で、FtXやMtXの人たちが生きにくいのは、まさにその点にある。

私が知る範囲でだが、女性のジェンダー記号をギラギラに身に着けているようなニューハーフのお姐さんは、女子トイレでニューハーフだとわかっても、ほとんどの場合、トラブルにはならない。
なぜなら「女性」ではないが、「女性をしている人」であることが明白だからだ。

それに対して、不審に思われがちなのは、ジェンダー記号に乏しく、「女性」でもないような、「女性をしている人」でもないような、つまり、よくわからない人だ。
(もちろん、男性のジェンダー記号が明らかな人がいちばんトラブルになるのは当然)

さて、他者から明確な性別認識が与えられないとなると、性自認と性他認のフィードバックが機能しないことになる。
つまり、性他認による性自認の補強がなされず、性自認の揺らぎが増幅されることになる。
感想を書いてくれた学生さんの状況は、まさにそれなのだと思う。

私は「ジェンダーは自分で決めるものである」と言っている。
ただし、決めるまでに猶予期間(モラトリアム)が有ってもいいと思うので、モラトリアムタイプのFtXやMtXの人についてはあれこれ言うつもりはない。
ただ、モラトリアとしてのXでなく、本気でXジェンダーを選択する人には、性別二元社会ではMtFやFtMよりも、FtXやMtXの方がずっと困難であることを説明する。
それでも、Xジェンダーで行くと言うのならば、それはもうその覚悟を応援するしかない。

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みれい

こんばんは、このお話は
‘川崎は首都圏であり都市部として認識されている’
‘尼崎は首都圏ではないけれど都市部として認識されている’
のような例えと類似性があるようにも感じます。

そうなると5月9日のエントリーで取り上げられている秩父は首都圏だけれども
…という話になってしまうのですが、それと同じように
性他認(見た目の)性別が性自認の性別と違って見えてしまう場合が出て来ると思われます。
そのような場合のためにも性別の変更だけでなくセクシャルマイノリティの理解を広めていく必要性があると思います。

性別の変更をあきらめてしまったような(わたしみたいに)場合でも、
性別違和感が続いていき精神的苦痛(身体的苦痛ではなくて)などで生きずらさを抱えながらも働かないわけにはいかないので、
そのような周辺の問題へも関心が向けられていけば、
より人生の選択肢が広がると思います。
by みれい (2014-05-26 22:31) 

三橋順子

みれいさん、いらっしゃいま~せ。
>性他認(見た目の)性別が性自認の性別と違って見えてしまう場合が出て来ると思われます。

そうした事例が出てきていることも説明します。
ただこれはなかなか難しい問題で、「男性にしか見えない女性自認の人」の性自認を尊重する方向が望ましいのはもちろんですが、「男にしか見えなくても女性と思え」と性他認の変更を強要することは、認識の強制であり、まずいわけです。

また、話の前提として、多様性の尊重があることは言うまでも有りません。
by 三橋順子 (2014-05-29 02:53) 

Gen

多様性の尊重って大事ですよね。
私はこの状態になってから初、世の中にはいろんな人がいるんだ、見た目では分からないかもしれない、と思うようになりました。仕事先で話す人でも、なんとなく、「あ、このお兄さん、もしかしてお姉さんかも、中身は」と思うようなことがあります。
今まで見えなかったようなことに気づけて楽しい、という面はあります。
それと異性愛者と決めつける言い方は避け、特定の相手はいるの?みたいな言い方をするようになりました。
社会が広くなったような気がしています。
by Gen (2014-06-13 02:25) 

三橋順子

はい、そうです。
多様性を認識できるようになると、世界がぐっと広がるのです。
私の講義を聴いてくれる学生さんには、そうした感覚を体験して欲しいです。

by 三橋順子 (2014-06-13 04:15) 

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