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江戸時代の女形の平生の姿(初世中村里好の例) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月12日(日)
江戸時代の歌舞伎の女形たちは、舞台の上で女を演じるだけでなく、舞台を降りた日常生活でも「女」で暮らしていた。
この点が、舞台の上でどれだけ巧みに女を演じていても、舞台を降りた日常生活ではきちんと男性をしている(ことになっている)現代の歌舞伎女形と大きく異なる。
現代風に言えば、江戸時代の女形はフルタイムのトランスジェンダーということになる。

こうした江戸時代の女形のフルタイム的な在り様を確立したのは、元禄~享保前半期の立女形、(初世)芳沢あやめだった。
あやめはその言行録『あやめぐさ』の中で、次のように女形の基本的な心構えを説いている。
「女形は色がもとなり。元より生まれ付て美つくしき女形にても、取廻しを立派にせん  とすれば、色がさむべし。また心を付て品やかにせんとせば、いやみつくべし。それ故、平生を、をなごにて暮らさねば、上手の女形とはいはれがたし。舞台へ出て爰はをなごの要めの所と、思ふ心がつくほど、男になるものなり。常が大事と存ずる」
(女形は色気が基本であり、美しく生まれついた女形でも、立居振舞を美しく見事にし  ようとするならば、わざとらしくなって色気が薄れる。また意識的になまめかしくしようとするならば、嫌みになるだろう。それ故、平常から女として暮らさなければ、上手な女形という評価は得られない。舞台に出てここが女を表す最も大事な部分と思うと、かえって男の地が出てしまうものなのだ。日常が大事なのだと思う)。

つまり、舞台の上だけで「女らしさ」を意識して演じても、うまくいくものではなく、日常生活から女として暮らし、平生から女であることを意識しなければ、「女らしさ」は身につかず、上手な女形と言われるようにならない、という教えだ。

こんなことを拙著『女装と日本人』に書き(第2章「近世社会と女装」第2節「歌舞伎女形の意識と生活―平生を、女にて暮らす―」 89~94頁)、江戸時代の女形の「女になり切った」エピソードもいくつか紹介したのだが、実は、平生を女にて暮らしている女形たちの姿が、いまひとつイメージできないでいた。

ところが、先日、江戸東京博物館の「大浮世絵展」を見ていて、この(↓)絵が目にとまった。
鳥居清長「中村里好と遊女」 (2).jpg
鳥居清長の「中村里好と遊女」という天明元~2年(1781~82)の作品。
最初、見たときは華やかな衣装で立つ女性が遊女に扮した中村里好なのかと思ったが、そうではなく、禿(かむろ、花魁付の少女)と並んで座っている人が中村里好だった。
月代を剃らずに兵庫髷?を結い簪を差した髪型も、緋色の襦袢に黒襟を掛けた草色の長着をゆったりと着て、朱色の幅広の帯を締めた着姿は、どう見ても中年の女性の姿である。
右手で襟元を合わせる仕草も女っぽい。

初代 中村里好(なかむら りこう 寛保2 ~天明6年 1742~86)は 初代中村歌右衛門(1714~91)の門人で、明和・安永・天明期に活躍した女形である。
名跡は、中村千三郎 → 中村松右衛門 → 初代中村松江 → 初代中村里好と変遷し、屋号は堺屋。
宝暦初年から中村松右衛門を名乗って上方で修業し若女形として注目され、宝暦11年(1761)江戸に下って松江と改名,以後、江戸の舞台で活躍し、安永2年(1773)里好と改めた。
世話女房や傾城などの役柄を得意とする美貌の女形として人気があった。
鳥居清長「中村里好の丹波屋お妻」 (2).jpg
鳥居清長「『坂町宵四辻』の(三世):市川八百蔵の古手屋八郎兵衛と中村里好の丹波屋お妻」(天明5年 1785)

清長の「中村里好と遊女」が世に出た頃、里好は29~30歳ということになり、当時の感覚では中年の女性姿というのも肯ける。
ということで、この作品は、江戸時代の女形の舞台姿ではない、平生の姿を写した数少ない事例ということになる。
やはり、江戸時代の女形は、平生(日常)から女装していたのだ。

ちなみに、この立ち姿の遊女は誰だかわからないそうだ。
「新吉原」の世に知られた名のある花魁なら「〇〇屋 〇〇」という形で、必ず絵の中に店と名が記されると思う。
そうでないということは、実在の花魁ではないのではないかという思いが浮かぶ。
その線で観察してみると、座っている里好の草色の着物の紋と、遊女の朱に白の細縞の小袖に付いている紋が同じなのではないかと気づく(図録も「同じ」と指摘している)。
ということは、この花魁は、遊女に扮した里好の舞台姿なのではないだろうか?
つまり、この絵は当代の人気女形の平生の姿と舞台の扮装姿を1枚の絵に並べて描くという趣向だったのではないか?
ただし、この絵、シリーズのようなので、この絵だけで仮説を立てるわけにはいかないのだが・・・。

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GandhiGanjee

この中村里好(歌舞伎の歴史に詳しくないので知りませんでした)を描いた鳥居清長の作品と、順子さんの解釈。実に興味深い。

今の時代、美術などは特に画像を掲載しないと話にならないのでしょうが、このブログで日々、画像アップとコメント書きをされている順子さんにはお手の物。ブログがそのまま日本文化研究の一端ないし一環になっていると思います。
by GandhiGanjee (2014-01-13 09:05) 

丁字屋

こんばんは ちょっと混乱してます。 

江戸時代の女形がフルタイムのトランスジェンダーとするなら、、、、
セクシャリティは男性ということなんですよね、つまり 性対象は女性で良いということですよね?

中村里好は 家庭では妻子を養う立場ではない。。。養う立場
 稼ぎのある女性 髪結いさんとか 産婆さんの亭主というのもあるから、、、ジェンダーがわかってない?

中村里好の妻は女性で 中村里好は男性として性生活を営む
中村里好の営む家庭が想像つかない。

江戸時代だから 男が 遊郭 岡場所 吉原で遊ぶのは特にスキャンダルではないだろうから、歌舞伎役者が遊んでもいいだろう。では 中村里好はじめ女形は 女装して遊びに行くのだろうか?

ごめんなさい 気になって仕方ないんですが 整理もつかないんです





by 丁字屋 (2014-01-14 20:31) 

三橋順子

GandhiGanjeeさん、いらっしゃいま~せ。
そう言っていただけると、うれしいし、励みになります。
私は「性」に関わる社会史・文化史の研究者のつもりなので、最終的には印刷物(書籍・論文)が成果だと思っていますが、そこにたどりつくまでの材料や思考過程をこのブログに記していきたいと思っています。
by 三橋順子 (2014-01-14 20:46) 

三橋順子

丁子屋さん、いらっしゃいま~せ。

江戸時代の女形のジェンダーは基本的に女性ですが、けっこういろいろだったようです。
この時代の女形は、ほぼ例外なく、少年時代に陰間修業していますから、男性相手の受け身の性体験があったことは、間違いないところです。
問題は、成人後です。
終生、独身を通し、女性と関係をもたずに、養子をとった女形もいましたが、妻帯して実子をもうける女形もいました。
「平生を、女にて暮ら」ことを強く主張した芳沢あやめ(初世)にしても、妻帯して男子だけでも4人を遺しています
あやめは一応「女形は女房ある事をかくし」と言っていますが、女形が「平生を、女にて暮ら」すことと、女性を妻にもち、子を儲けることとは、当時の感覚では矛盾しなかったようです。

中村里好の私生活についてはなにもわかっていないのですが、女形が女姿で新吉原に行くのは、さすがに世間の評判を考えると、憚られたと思います。
私が、この絵の花魁が、里好自身の舞台姿なのではないか?と考えたのも、そうした背景もあってのことです。
by 三橋順子 (2014-01-14 21:02) 

丁子屋

お答えありがとうございます。
陰間の話が出たのでさらに質問をさせてください。
陰間茶屋も江戸時代は公認というかやましいところのない遊び場と考えて良いのでしょう。スティグマのないといういみでですね。
では 女形は 陰間茶屋を「女」として利用したんでしょうか?
歌舞伎の女形というのは ジェンダーとかセクシャリティで考えるより第三の性と考えたほうが良いのかなと 思考放棄したくなる存在ですね。

女形 陰間修行と聞くと ずぅっと疑問に思っていたのは、日本文化にカストラーテとか宦官という存在がないのはなぜなんでしょう?
カストラーテはキリスト教文化圏の 去勢された男性歌手。
宦官は 儒教文化発祥の地中国の去勢された官吏。
キリスト教 儒教 理由は違っても身体を傷つけることを嫌う文化という気がするのですが、去勢男子が存在しておりました。なぜ 日本にはなかったのでしょうか? 第2次性徴前に去勢すれば、声変わりもしないし女性的な体形も実現するのにしないのはなぜなんでしょう?

by 丁子屋 (2014-01-17 13:08) 

三橋順子

丁子屋さん、いらっしゃいま~せ。
(質問1)陰間茶屋も江戸時代は公認というかやましいところのない遊び場と考えて良いのでしょう。
まず、非合法ではありません。
町奉行所に茶屋営業の届けを出してますから非公認でもありません。
江戸時代を通じて、奉行所が陰間茶屋だけを狙い撃ちにして摘発したこともありません。
では、まったく偏見がなかったかと言うと、少しはあったと思います。
陰間茶屋で遊ぶ客は①僧侶 ②男色家 ③後家さんやお女中ですが、②の人が「ああ、あいつは北里(新吉原)より芳町(陰間茶屋の集中地)の方が好きだから」と言われるくらいのことはあったと思います。

(質問2)女形は 陰間茶屋を「女」として利用したんでしょうか?
これは、質問が変です。
陰間茶屋で働いているのは、女形の卵(修業中)、もしくは端役しかつかず舞台での収入だけでは暮らせない若手女形です。
ですから、陰間茶屋での女形は客ではなく店(接客)側です。
舞台に立っている一人前の女形と遊びたいのなら、芝居茶屋を通じて茶屋に呼べば(つまり、しかるべきルートで段取りを踏んで、十分な金銭を払えば)、来てくれます。

(質問3)、日本文化にカストラーテとか宦官という存在がないのはなぜなんでしょう?
簡単に言えば、去勢の文化(技術)がないからです。
さらに言えば、そうした文化(技術)を導入する必要がなかったからだと思います。
男性去勢とジェンダーの転換については、論理的に次の3パターンが考えられます。
(1)去勢して、女性ジェンダーに転換
(2)去勢しても、男性ジェンダーのまま
(3)去勢しないで、女性ジェンダーに転換

(1)はインドのヒジュラ、(2)中国やビザンチン&オスマントルコの宦官、西欧のカストラートなど、(3)は日本の「陰間」、中国(清朝)の「相公」など世界各地のトランスジェンダー。
どういう形を取るかは文化の問題です。
日本は(3)の形が伝統的に好まれたということです。
また、中国清朝のように(2)と(3)が並存している社会もあり、どちらが優位な文化ということもありません。



by 三橋順子 (2014-01-17 14:37) 

丁子屋

おはようございます。またまた失礼します。

歌舞伎役者の女形は、「陰間茶屋」で「客」として遊べない。ということなんですか?陰間遊びは 誰でも金と手順を踏めば、利用できる娯楽と思っていましたが この辺はどんなモンなんでしょう?
なんとなく 江戸時代は身分社会なので 「女形」への身分上の制約が課せられているということなんでしょうか? たとえば、「僧侶」が「法体の医師」を装って女遊びするような感じで、

 私の陰間 陰間茶屋のイメージは 漫画「百日紅」(杉浦日向子)のエピソード、「カムイ」(白土三平)の宮城音弥 書名忘れた時代小説の水野十郎左衛門と旗本奴の宴席場面。まぁ 男芸者 高級男娼の類という理解です。


by 丁子屋 (2014-01-19 09:01) 

三橋順子

丁子屋さん、いらっしゃいま~せ。

女形が陰間茶屋に遊びに行ってはいけないという身分的制約はありません。
でも、それは現代にたとえると、銀座のクラブのママが、他のクラブに行って、ホステス遊びするようなものです。
それをしてはいけないという法はないですが、普通、それはしないでしょうし、そんな大先輩に遊びに来られる方も、迷惑でしょう。
by 三橋順子 (2014-01-19 14:08) 

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