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6月7日(金)初めての沖縄(1日目の1:琉球史の勉強) [旅]

6月7日(金)  曇り  那覇  28.4度  湿度68%(15時)
4時半、起床。
6時半、家を出る。
今日から仕事(講演)のついでに3泊4日の初めての沖縄旅行。
「世界の翼」スカイマークエアライン513便で、9時02分、羽田空港を離陸。
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↑ 沖縄の島が見えてきた。
下側が平安座島の沖縄石油基地、中央に伸びるのが「海中道路ロードパーク」、上側が与勝半島。
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↑ 慶良間諸島あたりか? 何という島だろう。
珊瑚礁があると海の色が変わるのがわかる。
11時23分、那覇空港に着陸。
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初めて沖縄県の土を踏む。
これで58歳にして日本全国47都道府県に足跡を印したことになる。

2003年に開業した現在運行している沖縄唯一の鉄道「沖縄都市モノレール」(ゆいレール)で那覇市内に移動。
24時間乗車券が600円。
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那覇空港~首里約13kmを27分でを結ぶ。
線路はかなり曲がりくねっている。
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牧志駅で降りて、国際通りを歩く。
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もっと大通りなのかと思っていたが、意外に道幅は狭い。
お土産物屋がたくさんある。

13時、「ホテルJALシティ那覇」にチェックイン。
一休みした後、再外出。
一日フリー乗車券を活用すべきモノレールで牧志駅からおもろまち駅まで乗る。
昼食は沖縄そばの専門店「けんばーのすばやー」へ。
ん?ここ?という感じの平屋の仮設建築のような建物。
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でも中は意外に広い。
おじさんの2人組と3人組が合わせて3組、平日の午後なのに、みんなビールを飲んでいる。
女性客は誰もいない。
一瞬、たじろいたが、「けんばーすば(肉全部乗せ)」(870円)を注文。
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「肉全部乗せ」は三枚肉、なんこつソーキ、本ソーキ(スペアリブ)の3種類の肉が全部乗っている。
透き通ったスープは、鰹ダシ+豚骨で、かなりあっさりの塩味。
麺は沖縄そばにしては腰がある。
おいしかったけど、(並)を頼んだのに、やや量が多くて、お腹いっぱい。

14時、沖縄歴史博物館へ。
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↑ 美術館と一体のせいか超現代的な建築。
一瞬、巨大なトーチカに見えた。
もっと琉球風の建物の方がよかったと思うが・・・。
3時間ほどかけて、じっくり琉球史の勉強。
博物館の歴史展示には、おなじみの鎌倉時代とか室町時代とかいうような日本史の時代区分はほとんど出てこない。
県立博物館で日本史の時代区分に従っていないのは、たぶん沖縄県博だけだろう。
古琉球-三山時代-統一琉球王国という琉球史の時代区分で見事に貫徹されている。
この展示を見れば明らかなことは、前近代の琉球は日本ではないということ。
文化的にも中国(明・清朝)との関係が日本よりずっと強いのは明らか。
公文書に「嘉靖」とか「乾隆」とかいう中国年号が使われているのが印象的。
年号を使用するということは「正朔を奉じる」といって、年号を定めた皇帝(日本では天皇)の時の支配に服すること、その皇帝の天下(統治範囲)に入ることを意味する。
琉球王国が、明・清朝に冊封された(皇帝からその臣下である王として承認された)藩国のひとつであったことのなによりの証明。
まあ、琉球王国の場合、明・清朝に直接統治されていたわけではなく、あくまで名目的なものではあるが。
17世紀初頭の薩摩島津氏の琉球侵攻以後は、琉球王の使者は江戸の徳川将軍にも挨拶に行っているが、日本で冊封の権限がある(はずの)京の天皇には使節を送っていない。
ところが、琉球王国で日常的に使用している文字は、漢文ではなく漢字の草体を崩した平仮名に近い文字。
平仮名文と漢文を併記している文書もある。
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↑ 「大明嘉靖二十二年」(1543)の年号がある「国王頌徳碑」。
表は平仮名文、裏は漢文になっている。
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↑ 首里の王府が発行した「はちまきりのやがのろ」(羽地間切の屋我ノロ)の辞令書。
年号の「?啓五年」は明の熹宗の「天啓五年」(1625)。
平仮名で書かれた文書に中国年号が記されているのは、日本ではまずあり得ないことで、とても珍しく感じる。
同時にそれが、琉球王国の特異な政治的ポジションを端的に表しているのだと思う。

そうした清朝から冊封を受け、薩摩の支配に甘んじていたとはいえ、とにもかくにも王をいただき独自の行政機構をもった独立国である琉球王国を力ずくで近代日本に組み込んだ1879年(明治12)の「琉球処分」の強引さも、よくわかった。
日本近代史で使う「琉球処分」という言い方はかなり欺瞞的で、実態は「琉球王国併合」だと思う。
しかも「韓国併合」は国と国との間で正式に調印した条約が有ったが、「琉球併合」には条約すらない。
なんともひどい話だ。
このときに、日本に併合されることを拒んで、清国に亡命して琉球王国復興の支援を求めた琉球の人たちがいたことをはじめて知った。
こうした場合、琉球王国を冊封している宗主国である清朝は、本来なら出兵して藩国を守る義務があるのだが、すでに国力が衰えていた清朝には琉球のために日本と戦う気が無かった。
その15年後の1894年、清朝は長年冊封関係にある朝鮮王国における宗主国として権益を守るべく、かなり無理をして朝鮮に出兵し、新興の日本に敗れ(日清戦争)、朝鮮王国への宗主権を失う。
こうしてみると、「琉球併合」は「韓国併合」と相通じる部分が多いことに気づく。

琉球王国については、断片的な知識はあったが、体系的に学んだことで、いろいろ認識を改めるところが多かった。
前近代の琉球が日本ではないということは、歴史を学ぶ者にとっては当然のことだが、それが日本人の一般的な認識になっているかというと相当に怪しい。
そこらへんに知識人を含めた日本人の沖縄への認識の歪みの根本があると思う。
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17時過ぎ、退館。

歩いて長い坂道を下って、崇元寺(そうげんじ)跡へ。
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↑ 1527年に建立された琉球王朝の歴代国王を祀った「国廟」で、明・清から来琉した冊封使はまずここで先王の祭祀を行った。
堂宇は沖縄戦で壊滅し、琉球凝灰岩の3連の石門だけが残る。
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門を入って、ガジュマルの大木を撮影していたら、体操をしていたおじさんに「どちらから?」と声をかけられた。
15分ほど、立ち話でいろいろ教えてもらう。
ここは明・清の冊封使が上陸する地点で、王宮(首里城)への陸路の起点。
なぜここなのかというと、那覇港からの水路(久茂地川)と、泊港からの安里川がここで合わさるからとのこと。
今は門の前は道路だが、以前はもっとずっと川が近かったとのこと。
博物館で勉強してきたので、だいたいは解っていたが、やはり現地で以前の地形を知っている方に話をうかがえて、状況がずっとリアルに把握できた。
私より少し上、60代半ばと思われる男性だったが、とても説明がわかりやすかった。
もしかすると、高校の先生でもされていたのだろうか?
(続く)

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コメント 2

日本国家社会主義連絡会

あくまでも結果論になりますが、八重山諸島、奄美群島などは琉球処分で琉球王朝の奴隷支配(農奴)から解放されました。
by 日本国家社会主義連絡会 (2013-06-11 17:29) 

三橋順子

日本国家社会主義連絡会、いらっしゃいま~せ。
おっしゃる通りで、沖縄の中にも、本島の琉球王朝と八重山の島々との間に支配・収奪関係がありました。
それも今回の旅でよくわかりました。
奄美群島は、17世紀初頭の薩摩の琉球侵攻の後、薩摩藩の直轄地になりました。収奪先が変わっただけですが…。
by 三橋順子 (2013-06-11 18:54) 

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