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パトリック・ボンマリートさんの訃報 [訃報・追悼]

4月17日(木)
一昨日あたりからTwitterで流れていたが、DJパトリックこと、パトリック・ボンマリートさんが亡くなった。
私より10歳下だから、まだ47か48歳のはずだ。
彼が『週刊Spa!』(扶桑社)に「パワフルHIVポジティブ パトリックのカミングアウト大作戦」を連載し始めた頃、私は同誌を毎週講読していた。
当時の『Spa!』は今のように保守化する以前で、けっこう時代の先端を行く記事も多かった。
彼の連載もその一つだった。
まだHIVポジティブの人がカミングアウトして社会に出ることが珍しかった時代で、そうした意味で印象深かったし、時にゲイ・カルチャー特有の感覚についていけないものを感じながらも、いろいろ教えてもらうことが多い連載だった。
DJパトリックは、1990年代、日本のAIDS(後天性免疫不全症候群)予防啓発運動の立役者であり、最大の功労者の一人と言っていいと思う。

聞くところによると、彼の死は、AIDSの症状が悪化しての死と言うよりも、極貧の中での困窮死だったらしい。
この現代の東京で困窮死とは……。
本来、あってはならないことで、なんとも胸が痛む(合掌)
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【訃報】日本のHIV/AIDS啓蒙の土台を作ったDJパトリック、日本で頑張った20年間
「日刊Spa!」2013.04.17 ニュース
http://nikkan-spa.jp/424624

かつてSPA!で足かけ10年にわたり連載をしていた、DJパトリックこと、パトリック・ボンマリートが亡くなった。
彼はHIVポジティブであることを早くからカミングアウトし、HIVの啓蒙に熱心に取り組んでいた人だった。
アメリカ人のパトリックは1965年、フロリダ生まれ。9歳のときに両親が離婚し、母親とスペインに移住したが、17歳のとき横田基地に勤める父親を頼って来日。10代後半を東京ですごす。1986年ニューヨークに移り、1989年、HIVに感染していることが判明。日本がバブルに浮かれ、ディスコ(!)が大ブームだった1993年にDJとして再来日し、日本のメディアにHIVポジティブであることをカミングアウト。以来、サウンドプロデューサーとして東京を生活の拠点としていた。
SPA!でパトリックの連載が始まったのは1994年8月。
日本では、1986年、長野県松本市へ出稼ぎに来ていたフィリピン人女性がHIVに感染していたことが報道され、HIVやAIDSへの誤った知識からエイズパニックが起きた。翌1987年には、神戸で日本人女性初の感染者が確認され、さらにHIV・エイズへの差別と偏見が高まることとなった。当時はまだ、HIVは空気感染する、というような認識だったのだ。
そんなパニックも冷めやらぬ中、奇抜なファッションとへこたれないスーパーポジティブキャラクターで、偏見をはねのけ、マイノリティによりそい、HIVの正しい知識を広めていったのがパトリックだ。性同一性障害や障害者夫婦、難病患者たちに会いに行き、中学校や高校では子どもたちに「相手を思いやるセックスって、どういうことだと思う?」と問いかける。
もちろん自身に関係のあるHIVやAIDSについての情報も発信し、アメリカやタイ、オーストラリアなど、HIV感染者を減らすことに成功した国にも取材に出かけていった。
連載は2003年9月2日号までの丸9年以上、445回、その後も不定期で「HIV/AIDSの今」としてリポートを続けた。
「性感染症? 何それ? ゴム買うおカネなーい! 子どもキライだから不妊症になっても平気!」とあっけらかんと語る女子高生たちにガックリしてみたり(2002年8月13号)、アメリカ取材では合法売春宿やAV組合の厳しい検査と管理に驚いたり(2003年12月9日号)。2004年には、タイ取材で初めてAIDS末期患者の姿を目にし、号泣したこともある(5月18号)。
そして、長いHIVとのつきあいの間には、心の揺れもあった。
「ボクさあ、こんなに生きる予定じゃなかったんだよね」とパトリックが言ったのは、HIVに感染して10年目を迎えたころ。
「お薬をやめればいずれAIDSを発症する。でも、薬を飲んでいれば一生大丈夫かどうかは、わからない。2000年までは頑張ろう!っていろいろ目標を立てたけど、大部分はかなってしまった」(1998年7月1日号)
パトリックがHIVに感染した80年代後半、HIVの薬は1種類しかなく、同時期に感染した人は、1、2年でAIDSで亡くなっていた。その後、新薬が次々と開発され、 「AIDSは死の病」ではなくなり、パトリックも「次はHIV感染20年を目指すんだもんね~♪」と目標を変更。その目標もクリアし、今年は感染から24年目を迎えたところだった。
車をぶつけられておシャカにされても、つとめていたお店がつぶれて借金ができても、彼氏に振られても、いつだって不死鳥のようにパワーチャージして甘えてくる、憎めないヤツだったが、最近は体調も経済状態もあまりよくなかったようだ。
パトリックとは20年以上のつきあいになる主治医の岩室紳也先生(厚木市立病院泌尿器科)は、今回の訃報に接し、以下のように語る。
「パトリックは、日本のHIV対策、予防、HIVとともに生きることを教えてくれた最初の人だと思います。その功績は計り知れないし、今の私があるのもパトリックのおかげです。彼に勇気づけられた人もたくさんいるでしょう。寂しいです」
パトリックがいつも講演などで話していたのは、「自分らしく生きること。自分を大事にすること。自分で考えて自分で決めること」。
20年近く日本でHIV・AIDSの啓蒙を行ってきたのも「自分で選んだ国だから」だ。
「2000年までは頑張りたいな」と常々言っていたパト。プラス13年分、よく頑張ったと思うよ。ご冥福を心よりお祈りします。
<文/元パトリック連載担当>
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パトリックの連載第一回目(小誌1994年8月10/17日号「パワフルHIVポジティブ パトリックのカミングアウト大作戦」)
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パトリックの連載最終回(小誌2003年9月2日号「パワフルHIVポジティブ GO!GO!PATRICK!」)
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