8月23日(木)夏の会津の旅3日目(その1:裏磐梯・檜原湖) [旅]
8月23日(木) 晴れ 会津若松 36.3度 湿度 46%(15時)
JR猪苗代駅のコインロッカーに荷物を預け、10時40分発(檜原行き)のバスに乗り、裏磐梯を目指す。
「五色沼入口」のバス停で降りて、喜多方方行きのバスに乗り継ぎ。
乗り継ぎ時間が40分近くあるので、すぐ近くの「ビジターセンター」の展示を見て、遊歩道を少し散策。
11時55分、ようやく「磐梯高原駅」に到着。
ん? 鉄道はないのに、なぜここだけ「駅」が付くのだろう?
目の前に檜原湖の湖面が広がる。
裏磐梯は、明治21年(1888)7月15日の磐梯山の大噴火と山体崩壊によってできた3つの湖(桧原湖・秋元湖・小野川湖)を中心とし、磐梯朝日国立公園の中核をなしている。
火山の噴火によって作られた特異な地形として世界的にも珍しく、「世界ジオパーク」の認定を目指している。
若い頃、地形学・火山学を勉強した私にとっては長年、来たかった所。
湖上遊覧船に乗る。
岸を離れると、じきに磐梯山の巨大な爆裂火口が全容を現す。
火口から湖の岸辺に下るスロープはすべて山体(小磐梯)が崩壊した岩なだれの堆積物。
明治21年7月15日、快晴の朝、7時頃から地震が続き、7時30分にひときわ強い地震があった。
7時45分、大磐梯山の北側にあったピーク小磐梯山付近から大音響とともに噴火が起こり噴煙が高く立ち上った。
6日ほど前から地鳴が聞こえたという話もあるが、当時の科学でじゃ噴火の前兆とは認識されず、地元の人々にとっては、まさに突然の噴火だった。
爆発は連続的に15~20回ほども続き、最初の噴火からわずか1分足らずで、小磐梯山を含む北側の山腹が大崩壊を起こし、高速の岩なだれになって一気に山を掛け下った。
崩壊堆積は13億立方メートル(東京ドーム1000杯分)、総重量は31億トン。
山頂から8km離れていた6分で到達し時速は80km/時と推測される。
ピンク色が岩なだれの堆積層。北側に大量に流下し、川をせき止めて、3つの湖(堰止湖)を作った。
岩なだれの直撃を受け、秋元原、細野、雉子沢の3集落は完全に埋没し、一瞬にして多くの人命が失われた。
噴火による被災家屋111戸、死者461名、負傷70名。
死者の内、遺体が発見されたのは117名に過ぎず、344名が今もこの景色の中に埋まっている。
大爆発19日前の磐梯山のスケッチ。地元の小学校の先生が描いた。
高いピーク(大磐梯)の左側にもうひとつのピーク(小磐梯)がある。
大爆発直後の磐梯山。会津若松の写真家が撮影。
すでにもうひとつのピーク(小磐梯)は崩壊して無い。
2本の噴煙は山稜の向こう側の爆裂火口から上がっている?
もう1枚の大爆発直後の磐梯山。やはり会津若松方面から撮影。
前の写真より少し後か?
山容がはっきりしているので、噴火前のスケッチと比べると小磐梯がなくなっていることがはっきりわかる。
現在の磐梯山。噴火前のスケッチとほぼ同じ場所から。
いちばん高いピークの左側の山稜がまったくすっきりしてしまっている。
小磐梯は爆発で崩壊、その噴火直後の写真では存在している左のピーク(湯桁山)は昭和29年に起きた爆裂火口の大規模な崖崩れで消失。
山体崩壊の模式図(共同企画展『会津磐梯山』図録 2008年より)
(1) 続発した地震で小磐梯山の山体に無数の亀裂が入り脆弱化しているところに噴火が始まる。
(2) 噴火の衝撃で山体に滑り面が生じ地滑りが発生し、火道が塞がれる。
(3) 火道の閉塞で行き場を失った火山ガスが亀裂に入り込み、滑り面から上の山体全体が浮き上がる。
(4) 一気に大崩落。
こうして、きわめて短い時間に巨大な爆裂火口が形成された。
桧原湖の南と東の岸は「流れ山」で形成されている。
桧原湖は磐梯山の爆発崩壊で形成された3つの堰止湖の内で最大。
面積10.7 平方km、最深部は31mある。
湖中には多くの島があるが、ほとんどは「流れ山」。
湖底には、米沢街道の宿場だった桧原の集落が沈んでいる。
こうして眺めると、美しい風景なのだが・・・。
あらためて大自然の脅威、火山の巨大なエネルギー、火山災害の悲惨さを実感させられた。
湖岸に戻ってレストハウスで昼食。
桧原湖から西に行くと喜多方なので、メニューに喜多方ラーメンがあった。
予想以上に、ちゃんと喜多方ラーメン(太めの縮れ麺、大量のチャーシュー)で、まずまずおいしかった。
JR猪苗代駅のコインロッカーに荷物を預け、10時40分発(檜原行き)のバスに乗り、裏磐梯を目指す。
「五色沼入口」のバス停で降りて、喜多方方行きのバスに乗り継ぎ。
乗り継ぎ時間が40分近くあるので、すぐ近くの「ビジターセンター」の展示を見て、遊歩道を少し散策。
11時55分、ようやく「磐梯高原駅」に到着。
ん? 鉄道はないのに、なぜここだけ「駅」が付くのだろう?
目の前に檜原湖の湖面が広がる。
裏磐梯は、明治21年(1888)7月15日の磐梯山の大噴火と山体崩壊によってできた3つの湖(桧原湖・秋元湖・小野川湖)を中心とし、磐梯朝日国立公園の中核をなしている。
火山の噴火によって作られた特異な地形として世界的にも珍しく、「世界ジオパーク」の認定を目指している。
若い頃、地形学・火山学を勉強した私にとっては長年、来たかった所。
湖上遊覧船に乗る。
岸を離れると、じきに磐梯山の巨大な爆裂火口が全容を現す。
火口から湖の岸辺に下るスロープはすべて山体(小磐梯)が崩壊した岩なだれの堆積物。
明治21年7月15日、快晴の朝、7時頃から地震が続き、7時30分にひときわ強い地震があった。
7時45分、大磐梯山の北側にあったピーク小磐梯山付近から大音響とともに噴火が起こり噴煙が高く立ち上った。
6日ほど前から地鳴が聞こえたという話もあるが、当時の科学でじゃ噴火の前兆とは認識されず、地元の人々にとっては、まさに突然の噴火だった。
爆発は連続的に15~20回ほども続き、最初の噴火からわずか1分足らずで、小磐梯山を含む北側の山腹が大崩壊を起こし、高速の岩なだれになって一気に山を掛け下った。
崩壊堆積は13億立方メートル(東京ドーム1000杯分)、総重量は31億トン。
山頂から8km離れていた6分で到達し時速は80km/時と推測される。
ピンク色が岩なだれの堆積層。北側に大量に流下し、川をせき止めて、3つの湖(堰止湖)を作った。
岩なだれの直撃を受け、秋元原、細野、雉子沢の3集落は完全に埋没し、一瞬にして多くの人命が失われた。
噴火による被災家屋111戸、死者461名、負傷70名。
死者の内、遺体が発見されたのは117名に過ぎず、344名が今もこの景色の中に埋まっている。
大爆発19日前の磐梯山のスケッチ。地元の小学校の先生が描いた。
高いピーク(大磐梯)の左側にもうひとつのピーク(小磐梯)がある。
大爆発直後の磐梯山。会津若松の写真家が撮影。
すでにもうひとつのピーク(小磐梯)は崩壊して無い。
2本の噴煙は山稜の向こう側の爆裂火口から上がっている?
もう1枚の大爆発直後の磐梯山。やはり会津若松方面から撮影。
前の写真より少し後か?
山容がはっきりしているので、噴火前のスケッチと比べると小磐梯がなくなっていることがはっきりわかる。
現在の磐梯山。噴火前のスケッチとほぼ同じ場所から。
いちばん高いピークの左側の山稜がまったくすっきりしてしまっている。
小磐梯は爆発で崩壊、その噴火直後の写真では存在している左のピーク(湯桁山)は昭和29年に起きた爆裂火口の大規模な崖崩れで消失。
山体崩壊の模式図(共同企画展『会津磐梯山』図録 2008年より)
(1) 続発した地震で小磐梯山の山体に無数の亀裂が入り脆弱化しているところに噴火が始まる。
(2) 噴火の衝撃で山体に滑り面が生じ地滑りが発生し、火道が塞がれる。
(3) 火道の閉塞で行き場を失った火山ガスが亀裂に入り込み、滑り面から上の山体全体が浮き上がる。
(4) 一気に大崩落。
こうして、きわめて短い時間に巨大な爆裂火口が形成された。
桧原湖の南と東の岸は「流れ山」で形成されている。
桧原湖は磐梯山の爆発崩壊で形成された3つの堰止湖の内で最大。
面積10.7 平方km、最深部は31mある。
湖中には多くの島があるが、ほとんどは「流れ山」。
湖底には、米沢街道の宿場だった桧原の集落が沈んでいる。
こうして眺めると、美しい風景なのだが・・・。
あらためて大自然の脅威、火山の巨大なエネルギー、火山災害の悲惨さを実感させられた。
湖岸に戻ってレストハウスで昼食。
桧原湖から西に行くと喜多方なので、メニューに喜多方ラーメンがあった。
予想以上に、ちゃんと喜多方ラーメン(太めの縮れ麺、大量のチャーシュー)で、まずまずおいしかった。
2012-08-27 22:20
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