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11月16日(土)「現代風俗研究会(東京の会)」新宿二丁目「ゲイタウン」の形成過程 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

11月16日(土)  晴れ  東京  19.5度  湿度46%(15時)

「現代風俗研究会(東京の会)での私の報告「『新宿二丁目・ゲイタウン』の形成過程」、聞きに来てくださった皆様、ありがとうございました。
いろいろなイベントが重なり、参加者少数が予想されましたが、お陰様で参加者23人の盛況でした。
特に、非会員で、Twitterで情報を知って、わざわざ来てくださった方、とてもうれしかったです。
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「現代風俗研究会(東京の会)」第20期 新風俗学教室「性の風俗」(第2回)
 2018.11.17(明治大学・駿河台)

新宿二丁目「ゲイタウン」の形成過程
                      三橋 順子(性社会・文化史研究者)
はじめに
江戸時代の内藤新宿の「飯盛女」に始まり、大正末期〜昭和戦前期の「新宿遊廓」を経て、戦後の「赤線 ・新宿」まで、長らく男と女の「性なる場」であった新宿二丁目は、1958年4月の「売春防止法」完全施行後、商業的に急速に衰退 ・空洞化する。そして、わずか10数年後の1960年代末〜70年代初には、男と男の「性なる場」である「二丁目・ゲイタウン」に変貌する。街ぐるみの性的指向(sexual orientation)の大転換は、新宿という「性なる街」の歴史地理の最大の謎だが、そのプロセスはまだ十分に解明されていない。
この報告では「今、どこまでわかっているのか」を、お話してみたい。
→ ほぼ、判明。

※ 新宿二丁目における「性なる場」の重層と性的指向の転換
(1)1698~1872年 宿場の「飯盛女」   (非公認の売春エリア) ♂×♀
(2)1873年~   貸座敷指定地(近代公娼制)(公認の売春エリア) ♂×♀
(3)1922年~1945年 「新宿遊廓」     (公認の売春エリア) ♂×♀
(4)1946年~1958年 「赤線」新宿     (黙認の売春エリア) ♂×♀
(5)1960年代末~現在 「二丁目・ゲイタウン」          ♂×♂

まとめ
(1)1950年~60年代前半、新宿通り南側の「千鳥街&緑苑街」(①)に何軒ものゲイバーがあり、新宿エリア最大の集中立地エリアだった。
現在の「新宿二丁目・ゲイタウン」エリアへのゲイバーの進出は、ここが起点になる。
(「千鳥街」起点説)
(2)1958年4月の「売春防止法」完全施行以後、二丁目の旧「赤線」「青線」地区の商業的空洞化(空き家化ではない)が進む。
(3)1963年頃、新宿通り北側の旧「青線」地区(②a)に「ぼんち」が進出する。
ここが拠点となり、次第に男性同性愛者が集まるようになる。
しかし、まだ店の数は少ない。
(「ぼんち」先兵説)
(4)1968年の「千鳥街」&「緑苑街」(一部)の立ち退きがきっかけとなり(「隠花植物」の胞子が飛び散るように)、1969~72年頃、ゲイバーの新宿通り北側の旧「青線」地区(②a)&太宗寺西側ブロック(②c)への進出が急速に進み、さらに靖国通り南側の旧「青線」地区周辺(②b)や旧「赤線」地区(③)にも及ぶ。
(「千鳥街」ビックバン説)
(5)つまり、「ゲイタウン」の形成は①→②→③の順で、新宿通り南側から北側へ進んだと考えられる。
(「南から」流入説)
新宿(1万分1)4 (4) - コピー.jpg
(6)1973年には、83軒のゲイバーが集中立地する世界最大規模の「二丁目・ゲイタウン」に変貌する。
(7)1963年に旧「青線」新宿二丁目の真ん中に店を構えた「ぼんち」は、この地域のゲイバーが①から②へ展開していく「先兵」「呼び水」の役割を果たした。しかし、ゲイバーの②③への本格的な展開の直前の1967年末~1968年春頃に「ぼんち」は閉店してしまう。


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