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男装者研究をする言い訳 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

5月19日(月)
6年前、『女装と日本人』を出版した時、何人かの方から、「FtMが出てこない」「男装についても書いてほしかった」という批評をいただいた。
正直、かなりお門違いな批評だと思った。

『異性装と日本人』という書名だったら、そういう批判も有りだろう。
しかし、書名は『異性装と・・・」ではなく『女装と・・・』だ。
FtMや男装が出てこなくても批判されるいわれはない。
それに私は、男装にはほとんどシンパシィがない。
興味がないものを調べても、良いものは書けない。
男装者の歴史は、男装にシンパシィがある人、FtMの研究者がやるべき仕事だ。
5~6年前の私はそう思った。

しかし、何年経っても、男装者の歴史的研究をするFtMの研究者は出てこない。
昨年あたりから「男装」がミニ・ブームになっているにもかかわらず。
マンガの中の男装者を分析したものとしては、押山美知子『少女漫画 ジェンダー表象論―男装の少女のは造形とアイデンティティ―』(彩流社 2013年1月増補版)という画期的な本が出た。
また、佐伯順子『「女装と男装」の文化史』(講談社メチエ 2013年3月)もかなり男装に頁を割いているが、演劇や文学の中の男装が対象で、歴史の中を生きた生身の男装者は分析していない。
論文レベルでも同様の傾向があり、マンガや演劇の男装者を分析にしたものがほとんどで、生身の男装者を取り上げた研究は欧米の男装者が対象である。
たとえば、ジョルジュ・サンド(フランスの女流作家、1804~1876年)は、とか・・・。
日本の男装者で取り上げられるのは川島芳子(愛新覺羅顯玗、清朝の皇族粛親王第十四王女、1907~1948年)とは清朝の皇族粛親王の第十四王女である。 本名は)くらいで、しかもジェンダー&セクシュアリティ的な分析は甘いことがほとんどだ。

なぜ、歴史の中を生きてきた生身の男装者に関する研究がないのか?
答えは簡単だ。
女装者に比べて、男装者の資料が圧倒的に乏しいからだ。
女装者がゲテモノ的好奇心もあってメディア(新聞・雑誌)に取り上げられることが多く、それなりに「華」のある女装者なら絵や写真も残っているが、「華」のない男装者の場合はメディアに取り上げられることは少ないし、写真が残ることもめったにない。
そもそも、演劇世界以外の市井に男装者が生活しているというイメージすら、一般の人にはないだろう。

ところで、この文章の初めの方で、「私は、男装にはほとんどシンパシィがない」と述べたが、学問的な関心がないわけではない。
だから、「女装」に関する文献資料を収集する過程で、「男装」に関する資料もちゃんと収集しておいた。
そこらへんは、情報収集者(リサーチャー)として抜かりはない。
たぶん、市井の男装者に関する資料を2番目に多く持っている研究者は私だと思う。
このまま埋もれさせておくには惜しい資料もある。
通史的・体系的な男装史研究を書く余力はないと思うが、これらの資料を生かして少なくとも昭和の「男装者略史」くらいはまとめておきたいと思う。

それと、トランスジェンダー論としての「男装」は、セクシュアリティ論としての「レズビアン(女装同性愛)」の問題と絡んでくる。
「男装」と「レズビアン」は、論理的には別系統の概念だが、昭和期以前の日本の場合、重なり合う部分も多い。
実は、秋までに「日本社会におけるレズビアンの隠蔽」について小論をまとめなければならない。
そんな事情もあって、埋もれている「男装」関係の資料を少し掘り起こしたら、とても興味深いものが出てきた。

ということで、長い前振り(言い訳)になったが、次の記事で紹介してみたい。
(続く)

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コメント 2

伊東聰

>歴史の中を生きてきた生身の男装者に関する研究

理由として思い当たることはたくさんありますが、まず一番に男装者研究のフィールドが広すぎるというのが大きいとおもいます。
男装者だけで学際研究の勉強会たちあがるといいますか、むしろそうしないときちんと網羅できないし、言説が時代の風潮に振り回される。

私は日本のFTMとして高場乱をあげておりますが、高場乱、川島芳子と個々に研究している人はいても、このふたりからレズビアニズムのフォーカスをきちんと考えられる研究者がいるか…とか。
ジェンダー、セクシュアリティの研究だけでなく、フェミニズム、性風俗などの社会学研究、右翼、やくざ、スパイなどのアウトロー研究やミリタリー研究の素養いるけれど、男装者に興味があってかつそこに興味がある人がいるかとか、研究者の素養的にフィールドワークがやりにくいなど…。
(アウトローとレズビアンのフィールドの両方にアクセスするのは不可能に近いかも…)

それとご指摘のとおりで文献などの視覚資料より、たぶん資料の多くが「語り」なのではということもあります。
高場乱→川島芳子ですと、玄洋社の歴史にかたよるし。玄洋社の歴史だとはたしてそこの研究者がはたして肯定的にジェンダー、セクシュアリティの視点をもっているか…など。

そうすると川島芳子の研究への三橋さんの指摘ではないが、どうしても中途半端な研究になって、書籍化は厳しい。
あとFTM系は「今」が大事で歴史には興味がない。(商業的にどう?)

いろいろ考えてしまいました。
by 伊東聰 (2014-05-20 07:12) 

三橋順子

伊東聰さん、いらっしゃいま~せ。

>このふたりからレズビアニズムのフォーカスをきちんと考えられる研究者がいるか…とか。
今まではいませんでした。これからは出てきてほしいけど・・・。

>文献などの視覚資料より、たぶん資料の多くが「語り」なのではということもあります
これは、「語り」の資料が多くなるのは、女装者もまあ似たような状況です。
公的な場に出にくい人たちの場合、仕方がないことです。
問題は、やはり解釈の仕方で、川島芳子論が典型的ですけど、ジェンダー&セクシュアリティをメインにした評論って少ないのです。
どうしても、彼女の軍事・政治活動が中心で、ジェンダー&セクシュアリティはそれに付随する「道具」という見方ですね。
さらには、川島芳子を見る視線、とくに当時の女性の視線が軽視されてます。
そこらへん、ジェンダー&セクシュアリティ視点で再評価したいです。

>FTM系は「今」が大事で歴史には興味がない
これはFtM系がというより、GID系がですね。
足元ばかり見て、自らを省みることをしないから、自分と過去(歴史)とのつながりが見えないのだと思います。

by 三橋順子 (2014-05-21 03:56) 

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