SSブログ

クリミア半島問題 [事件・事故]

3月6日(木)
クリミア半島は、もともとクリミア汗国(1441年頃 ~1783年)の領域だった。
その王は、モンゴル帝国の創始者チンギス・ハーン(1162年? ~1227年)の長子ジョチ(1184? - 1225年)の末裔ということになっている。
その住民たちは、テュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)で、その子孫がクリミア・タタール人である。
クリミア汗国は、建国当初からオスマン・トルコ帝国の影響下にあり、その保護を受けていた。
1683年、クリミア汗国の軍勢も参加したオスマン帝国の第2次ウィーン包囲戦が失敗に終わり、オスマン帝国に衰えが見え始めると、ロシアの圧力が強まっていく。
1736年にはクリミア半島本土へのロシア軍の侵攻を許し、16世紀以来の首都バフチサライの宮殿はロシア軍によって放火、破壊されてしまう。

1768年に始まる露土戦争でロシアが勝利した後で結ばれたキュチュク・カイナルジ条約(1774年)によって、クリミア汗国は独立国となり、オスマン帝国はクリミア汗国の保護権を失う。
以後、クリミアに対するロシアの影響力が急速に深まり、1783年、ロシアのエカチェリーナ2世は条約を破ってクリミア・ハン国をロシア帝国に併合してしまう。
ロシアは、クリミア戦争(1853~56年)でもイギリスとフランスの干渉に抗してクリミア半島の支配権を守り抜いた。

つまり、ロシアのクリミア半島支配の始まりは1783年ということ。
しかし、ロシアの支配下に組み込まれても、クリミア半島の住民の圧倒的多数はタタール人であることに変わりはなかった。
ところが、第二次世界大戦中の1944年、ソビエト連邦の独裁者スターリンによって対独協力の嫌疑をかけられ、クリミア・タタール人約20万人が中央アジアのフェルガナ盆地などに追放(強制移住)させらてしまう。
強制移住は徹底的で、クリミアの主都バフチサライのタタール人の人口は皆無になってしまった。
移住先での強制労働などで多くのタタール人が餓死し、タタール人の人口は急減してしまう。
ソ連時代末期にようやくタタール人のクリミア帰還が認められたものの、まったくの少数民族に転落してしまった。

1954年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクリミア州は、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ移管された。
そして、1991年、ソ連崩壊に伴って成立したウクライナ共和国の一部(クリミア自治共和国)になった。
つまり、ウクライナのクリミア領有の起点は、遡っても1954年である。

私は歴史主義者であり、かつ民族自決主義者だ。
ある地域の帰属は、歴史的な根拠(先住権)と、現在そこに住む人たちの意思によって決めるべきだと考える。
歴史的な先住権からすれば、①タタール人、②ロシア、③ウクライナとなる。
本来なら、クリミアはタタール人の地であり、タタール人の国家が復興されるべきだ。
しかし、スターリンの非道的な強制移住政策の結果とはいえ、タタール人は現在のクリミア自治共和国の人口の12.0%に過ぎない。
それに対してロシア人は58.3%、ウクライナ人は24.3%である。
現実問題として、これではタタール民族国家を立てるのは無理だ。
となると、ロシアかウクライナかということになるが、それは歴史的な先住順位、現住の民族構成からして、明らかにロシアに分があり、ウクライナには分はない。

今月中にも予定されるクリミア自治共和国の住民投票は、ロシアへの帰属を求める結果になると思う。
それが住民の多数意見なら、欧米諸国も含めて国際的に尊重されるべきだと思う。
日本のマス・メディアは、こうした経緯を検討した上で、アメリカに同調してるのだろうか?

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0