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第17回多摩ジェンダー教育ネットワーク集会 [お勉強(研究会)]

1月23日(木)
(続き)
新宿駅でJR中央線に乗って吉祥寺駅へ。
北口に出る。
吉祥寺は産経学園の仕事で月1回来ているが、いつも南口で、北口はほとんど知らない。
ちょっと時間があったので「ハモニカ横丁」をのぞいてみる。
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東京では数少なくなった闇市起源の飲食店街。
建物は新しくなっているようだが、細い路地が交差する地割りは闇市時代の名残を色濃く残している。

北口のバス乗り場からバスに乗って成蹊大学前で下車。
成蹊大学の校門に続く、けやき並木も真っ暗。
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19時、多摩ジェンダー教育ネットワーク第17回集会。
今回の報告は 今田絵里香さん(成蹊大学文学部講師)「『少年少女雑誌における文字の文化について」。
(要旨)
・1910年代、少年少女雑誌においては文字の文化が力を持っていた。
・文学作品を読むこと、文学作品を書くことが、読者たちに支持されていた。
・その核になっていたのがセンチメンタリズムである。
・「私」の世界を象徴するセンチメンタリズムが「公」の世界を象徴するストーリーとは別のストーリーとして力を持っていたといえる。
・1920年に入ると、少年雑誌においては学校化の拡充によって読むこと、書くことの力が失われていった。
・しかし、少女雑誌においては学校化が不充分であったことによって、ますます読むこと、書くことは盛んになっていった。
・子どもの文化とはいえ、少年文化と少女文化はまるっきり異なっているということがわかり、「少年らしさ」と「少女らしさ」というジェンダーに大きな影響力を与えていたことが見えてくる

1920年代(大正期)、少女と少年の「文字の文化」(具体的には雑誌の「読者欄」への投稿)に乖離が生じるという指摘は、とても興味深い。
少女雑誌に「文字の文化」に親しんだ少女たちは成人後(結婚後)も、「文芸」への嗜好を保ち続け、やがて前近代には男性の趣味だった短歌・俳句をはじめとする大衆「文芸」の世界は女性によって担われていくようになる(やがて小説も)。
それに対し、少年は成人後はますます「文芸」から離れていき、その乖離はどんどん大きくなる。
短歌・俳句の世界では、結社の中心は男性だが、投稿者の多くは女性になっていく。
私の中学校時代も「文芸部」は女子部員だけだったし、女子高には「文芸部」があったが、男子高にはなかった。

もうひとつ興味深かった視点は、「読者欄」への投稿という文化。
これは、戦後の「平凡」や「明星」などの青年雑誌にも引き継がれるが、最後まで残るのが、セクシュアルマイノリティの雑誌だった。
たとえば男性同性愛雑誌の『薔薇族』(1971~2004年:第二書房)とか、女装雑誌の『くぃーん』(1980~2003年:アント商事)などは、世の中のインターネット化が進む中、最後まで読者投稿の頁が大きな比重を持っていた。
戦前の少女雑誌には「読者会」というイベントがあったそうだが、まさに現代の「オフ会」の源流だと思う。

さらに、これは今回の報告とは関係ないが、戦前の「少女雑誌」の世界で形作られた「エス」の文化は、戦後、いつまでたどれるのか?ということ。
「エス」が女学校文化であることを考えると、戦後の公立学校の男女共学化とともに(1950年代)力を失っていったと考えられるが、北関東~南東北の「高校男女別学文化圏」や私立の女子高では、少なくとも1970年代までは生き残っていたと思う。
ここらへんは研究が乏しいところで、レズビアニズムとの接続という点で関心がある。

いろいろ触発された点が多い報告だったが、今田さんによると戦前の少女雑誌は、現在でも集成が不十分で、復刻もされてなく、閲覧がむずかしいことが研究のネックになっているらしい。
どこか復刻事業を手掛ける出版社はないものだろうか。
21時過ぎ、閉会。

木本喜美子先生(一橋大学教授:社会学)に誘っていただき、今田さん、石川照子さん(大妻女子大学教授:中国近現代史)、稲本万里子先生(恵泉女学園大学教授:日本美術史)にご一緒して、吉祥寺駅北口のイタリアレストランへ(店名失念)。
皆さんお酒強い!
お料理はおいしかったが、赤ワインの飲み過ぎで酔っぱらってしまう。
23時過ぎ、お開き。
京王井の頭線で、明大前まで稲本先生とご一緒して、その後、渋谷に出る。
(続き)
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