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武蔵野市「武蔵八丁特飲街」の遺跡 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

7月28日(月)
(続き)
吉祥寺での講義を終えて、JR中央線で三鷹駅に移動。
12時50分、三鷹駅北口の「武蔵八丁特飲街」跡の踏査と撮影。
武蔵八丁は、国鉄中央線の三鷹駅北口から程近い武蔵野市武蔵野八丁目(現:武蔵野市中町2丁目12番地)の畑地に1949年(昭和24)秋頃から建設が始まり、地元の反対運動にもかかわらず1950年(昭和25)秋に8軒が営業を始めた「特殊飲食店」(実質的な娼館)街。
1956年8月末には、10軒の「特殊飲食店」に、59人の従業婦がいた(『東京の婦人保護』)。

論文「東京新宿の『青線』について」を執筆する際に、都内の「青線」を把握しておく必要があり、いろいろ調べたのだが、この武蔵八丁を「赤線」(警察が黙認する買売春地区)とするか「青線」(警察が黙認しない非合法な買売春地区)とするかは、見解が一定しない。
「武蔵野市の赤線が集団廃業」(『朝日新聞』1958年1月12日号)のように「赤線」としてカウントしている資料も複数あり、研究者でも加藤政洋氏は『敗戦と赤線―国家売春の時代―』(光文社新書 2009年)で「赤線」として扱っている。
一方、東京都民生局が1974年に「売春防止法全面施行15周年記念」としてまとめた『東京の婦人保護』の中にある図表「都内赤線・青線分布図」では「青線」として記載されている。

東京では1946年12月に「赤線」システムが機能して以後、新設された「赤線」はない。
これは「赤線」の既得権益の黙認という性格から肯けるもので、もし武蔵八丁が唯一の新設「赤線」だとしたら、なぜここだけが認められたのだろうか?
「赤線」に「昇格」したい「青線」は、新宿花園街など他にもあったのに。
私は東京都民生局が「青線」として認識していることを重視すべきだと思っているが、論文を入稿する前に一度、現地を見ておきたかった。
事前に調べておいた場所は、三鷹駅北口から徒歩7分ほどの武蔵野市中町2丁目12番地(青塗りは三橋)。
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取りあえず「八丁通り公園」を目指す。
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「八丁通り交差点」の北東に明らかに一般住宅とは異なる建築様式の建物が・・・。
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「武蔵八丁特飲街」の「組合事務所」として建てられた建物と思われる。
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↑ 西側から。
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↑ 二階のバルコニーの手すりは、神社の玉垣を思わせる石製?
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↑ 塀の作りもかなり凝っている。
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↑ 敷地の隅に置かれている石も立派なもの(銘石)。
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↑ 「組合事務所」裏側の路地。
単なる裏路地にしては道幅が広く、おそらくこの両側に「特殊飲食店」が軒を連ねていたのではないだろうか?
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↑ 路地の北東にある建物。
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↑ 腰壁に鉄平石を貼るのは昭和30年代に特徴的な様式。
古い建物であるのは確かだが、「特殊飲食店」時代の建物か、廃業(1957年)後の立て直しか微妙。
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↑ 西側から(左側が旧「特飲街」)。
閑静な住宅地の中に、このエリアだけ八丁通りの両側に飲食店が集まっている。
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↑ 八丁通りの南側の路地。
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↑ 南北方向の短い路地とT字形に東西方向の行き止まりの路地があり、小さな飲食店街を形成している。
この「特飲街」南側の飲み屋街の成立については、はっきりとはわからない。
「特飲街」に付属したものとも考えられるが、「特飲街」が廃業した後にそれに代わる飲み屋街として成立した可能性もある。
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↑ 1963年(昭和38)の航空写真。
中央やや右下の交差点が「八丁通り交差点」。
その左上のブロックが旧「武蔵八丁特飲街」。
八丁通り南側の飲み屋街もすでに存在している。

「武蔵八丁特飲街」は、洲崎(現:江東区東陽町)の「赤線」業者が中心となり、当初は「特殊飲食店」50軒以上の「特殊飲食店街」として計画されたらしい。
となると、街割りも計画的になされたはずで、現在12番地西側の行き止まりの南北道路(写真撮影忘れ)などは、その痕跡と思われる。
規模的には、もぐり営業的な「青線」より、ずっと本格的で、業者の思惑としては多摩地区最大の「赤線」になるはずだった。
しかし、地元住民の反対で大幅に規模を縮小せざるを得なくなり、行政(警察)の「黙認」(地図上で赤線で囲む)も得られなかったのではないか。
つまり、「赤線」として計画されながら、「赤線」に成り損ねた「青線」という位置づけが妥当だと思う。

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コメント 6

ふぶら

昔、三鷹駅の近くに住んでいました。それと意識したことはなかった場所ですが、たまたま用事もあり昔のよしみ(?)で、自分もこの界隈を訪ねてみました。
成程、この一角だけ忽然と違う雰囲気です。色々と歴史的由来があったのですね。個人的には、その当時なぜこの一角にそのような歓楽街を作ろうと思ったのか? がサッパリわかりませんが…都心には無い何かを求めたのでしょうか?
近くに小さなお稲荷さんがありました(「八丁稲荷」さんと言うらしい…)。ご挨拶無しも失礼ですから一応ぺこりとお辞儀して、ささやかにお賽銭を入れて来ました。
by ふぶら (2014-08-03 20:49) 

三橋順子

ふぶらさん、いらっしゃいま~せ。
あの界隈を知っている方なら、あのブロックだけ雰囲気が違うことに気づきくと思います。
ただ、その理由を知っている方は、もう少なくなっていると思いますが。

>なぜこの一角にそのような歓楽街を作ろうと思ったのか?
建設計画が立ち上がった当時、周囲はほとんど畑だったようです。
駅に比較的近くて、用地確保がしやすかったこと。
東京の西側には「新宿」以外以外大きな「赤線」がなく、中央線沿線は「立川」まで歓楽街の空白地帯で、集客的に有利と考えたことが理由ではないでしょうか。

「八丁稲荷」、道順と時間の関係で見落としました。
撮れなかった写真もあるので、いずれ再訪しないと・・・。

by 三橋順子 (2014-08-05 02:35) 

ふぶら

「八丁稲荷」さんはとても小さな、駐車場の脇にちょこんとあるお稲荷さんですので、お気付きにならなくとも無理はありません。大きな木や目印もありませんし…でもお狐さんのお像、拝見するだけで何とも心が良くなると申しますか、良い心持ちになった自分です。

その後、ネットでこの界隈の事を調べたら「グリーンパークの野球場」との関連を指摘した内容がありました。昭和25年頃、神宮球場はじめ進駐軍に接収されて野球場不足に悩んでいた頃、三鷹駅の北に「グリーンパーク球場」が出来たそうです(「やっと戦争が終わってこれで野球が出来ると日本に帰って来たら神宮もどこも進駐軍に接収されてて野球が出来ない、悔しかったなぁ」というオールド野球少年同士の会話を20年位前、大学野球の観戦席で聞いた事があります)。三鷹駅から球場までの列車の支線もあったそうです。そこで野球場近くの駅に観戦客目当ての遊興施設を作ろうとした…しかし神宮他の球場が返還され後楽園等新球場も出来、場所も悪いグリーンパーク球場は結局さして使われず廃止、便乗しようとした歓楽街も市民の反対もあり廃止…てな説でした。
個人的には、グリーンパーク球場はかなり三鷹駅から離れてますし(当時は何でもなかったのかしらん?)、この説が絶対正しいのかどうかはわかりません。ただ武蔵野の市民運動の資料はまとまっているそうなので、図書館で調べてみたいです。
昔住んでいた場所のすぐ近くに、色々な由来や歴史があるのが調べてわかる事、とても面白いです。
by ふぶら (2014-08-10 16:01) 

特飲街巡り

今年の六月、仕事で三鷹駅北口に降り、まだ時間があったのでぶらぶらとしていたら、何か違う雰囲気の一角がありました。
もしやここもか? と気になり調べたら、やはり特飲街跡。
こういった場所は、再開発が多少遅れている事もありますが、
独特の雰囲気があります。当時の猥雑な雰囲気ともの悲しさを想像しながら、今のこの空気に浸る、これがやめられません。
by 特飲街巡り (2014-09-14 01:55) 

三橋順子

ふぶらさん、いらっしゃいま~せ。
お返事がたいへん遅くなり失礼しました。
グリーンパーク球場の経緯、あらためて調べてみました。
武蔵八丁とは距離的に離れていて、ちょっと見当違いかなという気がします。
ただ、武蔵野市の戦後史としてはおもしろいです。

by 三橋順子 (2014-09-15 13:48) 

三橋順子

特飲街巡りさん、いらっしゃいま~せ。

そうですね。どこか時代に取り残されている、うらぶれた雰囲気が漂う所が多いですね。
私もそうした雰囲気に惹かれるところがあります。
「土地の記憶」がそうさせると考えるとロマンがありますが、実際には土地の権利関係が複雑で再開発が難しいのかもしれません。

by 三橋順子 (2014-09-15 13:53) 

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