SSブログ

鶯谷ラブホテル街の形成過程(その1:現状把握) [性社会史研究(連れ込み旅館)]

5月11日(土)
ゴールデン・ウィーク、「両毛線の旅」の帰路、上野終点の臨時電車に乗った。
日が暮れてもう少しで上野駅に到着する直前、JR山手線鴬谷駅の前後で車窓の左側に林立するラブホテルのネオンにあらためて驚いてしまった。
鴬谷駅北口周辺の根岸1丁目、2丁目は、新宿歌舞伎町2丁目、渋谷円山町、五反田と並ぶ東京の四大ラブホテル街である。
いや、その軒数と密集度からして、東京区部最大のラブホテル街と言うべきだろう。

ただ、東京西部(城西・城南地区)を生活圏にしてきた私にとって、新宿歌舞伎町2丁目と渋谷円山町はそれなりに馴染みがあるが、鴬谷はまったく土地勘がない。
なにしろ、鴬谷駅は29ある山手線の駅の内、たぶん一度も乗り降りしていない唯一の駅だと思う。
なぜなら私が山手線に乗るのは、渋谷、恵比寿、目黒駅のどれかだが、鴬谷駅はその真反対、ほぼ180度向う側で、いちばん時間がかかるからだ。
いつだったか、上野公園の博物館に行った時に気が向いて新坂を下って入谷まで歩いたことがあったが、鴬谷駅は素通りして、東京メトロ日比谷線の入谷駅から電車に乗った。

私は、サブ・ワークとして1950年代の「連れ込み宿」のことを調べているので(なかなか進まないが)、その関係で新宿区や渋谷区の状況、つまり、1950年代の「連れ込み宿」の立地と、その後のラブホテル街の形成の関係については、ある程度の見通しは得ている。
簡単に結論を言えば、両者は必ずしも一致しない。
少なくとも1950年代に形成される「連れ込み宿」街が1980年以降のラブホテル街にすんなり発展するとは限らないということ。

さて、鴬谷だ。
先日、知人のFaceBookで、正岡子規ゆかりの「根岸の里」のひどい現状が話題になり、ラブホテル街の形成について、まったく実証性がない話が通説化している現実に気付いた。
ということで、鴬谷ラブホテル街の形成過程を調べてみることにした。
まず、手始めは現状把握である。
そこで、ネットで見つけた「鶯谷駅のラブホテル」というサイトを参考に、2012年の住宅地図を赤鉛筆で塗っていく作業をした。
http://fujoho.jp/index.php?p=hotel_list&s=22
ちなみに、私は「地理学の基本作業は何ですか?」と問われれば、「地図の色塗りです」と答える。
まあ、今時、赤鉛筆で塗る研究者はいないだろうが…。

大きさ的に1枚の画像には収められないので、2つに分割して示す(薄い赤に塗ってあるのがラブホテル)。
鴬谷・根岸2丁目 (2).jpg
鴬谷・根岸1丁目 (2).jpg
上が根岸2丁目、下が根岸1丁目(画像をクリックして大きくしてご覧ください)。
いやぁ、すごい。
子規庵(根岸2丁目5-11)も台東区立書道博物館・中村不折記念館(同10-4)も、鎌倉後期に勧請されたという縁起をもつ東京区部有数の古社である元三島神社(根岸1丁目7−11)も、ラブホテル群に埋もれている。
いったい何軒あるかというと、数えた方にもよるが根岸1丁目に46軒 同2丁目に23軒、合計69軒である。
ちなみに先述の「鶯谷駅のラブホテル」には65軒が載っている。

これで、現状把握はできた。
あとはエリアごとにリストを作って、1軒1軒、いつ頃できたか、過去の住宅地図を当たっていく。
手間はかかるが、これがいちばん確実で実証性の高い方法だから。
(続く)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0