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10月15日(土)鳥尾多江『私の足音が聞こえるーマダム鳥尾の回想ー』を読む [読書]

10月15日(土)

持病の坐骨神経痛に加えて、疲労性の筋肉痛で、立ち居が苦痛なので、一日、自宅で静養。

鳥尾多江『私の足音が聞こえるーマダム鳥尾の回想ー』(文藝春秋、1985年)を読む。
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鳥尾多江(下條鶴代、1912~1991年)は、明治45年5月、三井物産社員・下條(げじょう)小四郎の娘として、東京市麹町区(現:東京都千代田区)に生まれる。
日本画家で貴族院議員だった祖父下條桂谷に溺愛されて育ち、平民でありながら女子学習院に入学。
1932年(昭和7)20歳で子爵・鳥尾敬光(のりみつ、1910~1949年)と結婚、後に一男一女を生む。

1946年(昭和21)、34歳の時、GHQ民政局次長チャールズ・ケーディス中佐(1906~ 1996年)と知り合い、恋に落ちる。
その関係は、1948年にケーディスが帰国するまで続いた。
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1949年、夫敬光が亡くなると、、1950年頃から昭和電工社長森清(1915~1968年、後に衆議院議員、総理府総務長官)と恋に落ち1968年6月に森清が逝去するまで、愛人関係にあった。
その間、1953年、銀座でバー「鳥尾夫人」を開くが、2年8か月で閉店。

こんな略歴の人で、明治末年生まれの上流階級の女性にしては稀な自由を愛し自己に忠実の生きた人。
自伝を読むと、自立心の強さと旺盛なバイタリティ(生活力)が実に印象的だ。

マッカーサー司令官の懐刀として辣腕をふるったケーディス民政局次長との愛情関係も、策謀や打算からではなく、彼女の「恋愛体質」から始まったことだと思う。

戦後、GHQの高級将校の接待に、「国策」として英語がしゃべれて社交に慣れた日本の華族・上流階層の女性が当たったことは知っていた。
1946年2月、幣原喜重郎内閣の書記官長楢橋渡(1902~1973年)の強い要請で、彼女と鍋島子爵夫人しげ子が初めてGHQの高級将校を招くパーティ(麻布・楢橋邸)に出席する場面(そこでケーディスと出会う)の記述は、詳細でリアリティがあり印象的。

同時に、多くの国民が飢餓線上の苦しみにあった時、上流階層はこんなことをしていたのかと驚いてしまう。
亡父が「あの頃、GHQとコネがある人とない人とでは天と地の違い」と語っていたことが思い出された。



浅田次郎『一刀斎夢録』 [読書]

1月26日(月)

夜中、浅田次郎『一刀斎夢録』(文春文庫)を読了。
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全編ほとんどが新撰組副長助勤・三番隊組長斎藤一(1844~1915)の一人語り。

戦いの中で大勢の人を斬りながら、自らは最後まで斬られることなく、45年もの長い明治を生きぬき、大正の新時代まで見て、畳の上で大往生をとげた(大正4年72歳で没)稀代の剣客が語る、幕末動乱の京、鳥羽伏見の戦、会津戦争、そして西南戦争。
斎藤が語る、新撰組隊長近藤勇、副長土方歳三、一番隊組長沖田総司の人物像もおもしろい。

と言っても、ほとんど全部、浅田次郎さんの作品世界なのだが。
ほんとうに斎藤一の聞き書き「夢録」が残っていたら、すごい史料なのだが・・・。
(子母澤寛が昭和4年=1929に発表した『新選組遺聞』に、「夢録」という斎藤一の口述録があると記されているが、真偽不詳)

それにしても、相変わらず、浅田さんは「お話」がうまいなぁ。
作品世界に引き込まれるように読みふけってしまうので、仕事が忙しい時には「危険物」なのだ。

斎藤一の経歴については、下記を参照ください。
2014年7月13日 新選組三番隊組長「斎藤一」、明治初期の警視庁名簿に
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-07-23-4

土肥いつき著『「ありのままのわたしを生きる」ために 』 [読書]

12月25日(木)

友人の土肥いつきさんから、新著『「ありのままのわたしを生きる」ために 』をいただく。
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性教育ハンドブック(6)「『ありのままのわたしを生きる』ために」
土肥いつき著
2014年12月22日
JACE(一般財団法人日本児童教育振興財団内 日本性教育協会)発行
定価500円
購入希望の方は下記からどうぞ。
http://www.jase.faje.or.jp/pub/sy06_arinomamano.html#book01

「性別違和」を抱えた高校教員の自叙伝。
JASEの月報『現代性教育研究ジャーナル』に3年間(2011年4月~2014年3月)36回連載されたものに加筆してまとめたもの。

そもそも、月報に3年間1度も欠かさず文章を書き続けるということがすごい。
トランス関係では、月刊の性風俗雑誌『風俗奇譚』に足掛け8年間80回連載された加茂こずゑ『女装交友録』(1967年6月号~1974年1月号)に次ぐ偉業ではないだろうか。
ちなみに、私の「フェイクレディのひとりごと』(『ニューハーフ倶楽部』連載)は、足掛け13年56回(1995年5月~2007年8月)だが、隔月もしくは季刊誌だったので。

月報連載時から、ほぼ毎回読んでいたが、再読して「この人は強いな」と改めて思った。
男性から女性へと性別を移行していくなかで、自分を突き詰めて、そして突破していく力がすごい。
そういうことが苦手で逃げてばかりいる自分からすると、うらやましい限りだ。

だからこそ、大勢の人たちが、土肥さんの生き方に感銘して「お手本」にするのだと思う。
この本も「生きている性教育:土肥いつき」の生き方を示す「教典」になっていくだろう。
そうしたカリスマ・トランスジェンダー的な扱いを、ご本人が好まないことは、よく承知しているが、世の中、そんなものだ。

でも、土肥さんのことだから、きっとそんな好ましくない状況を、自分の方法で突破していくだろうと、トランス界「反面教師」は思う。
ともかく、執筆、お疲れ様でした。

ハマザキカク著『ベスト珍書―このヘンな本がすごい!―』に・・・ [読書]

12月4日(木)
先日、マイミク&Facebookつながりの「ぷくむく」さんに会ったとき、「順子さんが関わっている本が載ってるよ」とプレゼントされた本(感謝)。
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ハマザキカク著『ベスト珍書―このヘンな本がすごい!―』(中公新書ラクレ、2014年9月)
著者は「珍書プロデューサー」と称する方で、本業は社会派出版社の編集者らしいが、2000年以降に出た新刊を全点チェックしている「本マニア」「珍書マニア」の方。

私が関わったどの本がお眼鏡にかなったのだろう? やっぱり『女装と日本人』かなと思いながら掲載頁を探す。
すると、かなり後ろの方の第9章「珍エロ本」」というカテゴリーに取り上げられていたのは・・・。
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矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部 2006年)意外だった。
こんなほとんど誰も読まないような地味な本に目をつけるなんて、このハマザキさんという方、相当な「目利き」だ。

見出しには「ほとんどインタビューで写真や図のない女装研究集大成」とある。
なるほど、女装本は写真がたくさんある、というのが一般的なのか・・・。
本文は、私の論文「現代日本のトランスジェンダー世界」と「『性転換』の』社会史」の紹介。
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この本の価値は、収録されている4人の方(3人のベテラン女装者と1人の女装者愛好男性)のロング・インタビューにある。
まあ、そこまで読み込むのを求めるのは、無理かもしれないが。

ともかく、「日本社会病理学会・出版奨励賞」を受賞したものの、世の中的にはまったく日の当たらなかったこの本を紹介してくださって、うれしかった。
ハマザキさん、ありがとうございました。

11月12日(水)川本直『「男の娘」たち』/池川玲子『ヌードと愛国』を読了 [読書]

11月12日(水)   曇り   東京  16.0度   湿度83%(15時) 
昨夜、倒れるように早寝してしまったせいで5時過ぎに目が覚めてしまう。
起き出してネットをチェック。
6時にまたベッドへ。
8時50分、起床。
二度寝で30分ほど寝坊。
シャワーを浴びて、髪と身体を洗い、髪はブローして、あんこを入れて、頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
大急ぎで化粧と身支度。
青基調に楕円形模様のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、焦茶のトートバッグ。
黒のカシミアのショール。

9時50分、家を出る。
途中、コンビニによって配布資料をコピー。
東急東横線で自由が丘駅へ。
10時半、産経学園(自由丘)で「春日権現験記絵」の講義。
12時、終了。

昼食は久しぶりにインド料理「タージマハール(TajMahal)」へ。
Bランチ(980円+税)を注文。
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ナンが巨大化していて食べきれるか心配になったが、朝ご飯抜きでお腹が空いていたので食べられた。
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日替わりカレー(左)は、オクラ入りチキンカレー。
右は定番のマトンカレー。

13時、学芸大学駅に移動。
東口商店街の「ドトール」でコーヒーを飲みながら、川本直『「男の娘」たち』(河出書房新社、2014年9月)を読む。
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「仕事部屋」に戻っても読み続け、15時頃、読了。
現代の若者たちの女装世界の多様さが、丁寧なインタビューの積み重ねで多角的にとらえられている。
私が知らない世界なので、単純におもしろかった。
書評的な感想は、また後日。

1時間ほど眠った後、着物の山と格闘。
「群馬きもの復興委員会」主催の「きものdeチャリティー」(12月6日 桐生織物会館)に出す物を選ぶ。
物は良いのだけど私とは縁が薄かった上等の小紋と帯各1点をお嫁に出すことにする。

17時、再外出。
自宅最寄り駅までの「ドトール」で読書。
池川玲子『ヌードと愛国』(講談社現代新書、2014年10月)を読了。
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女性史研究者の視点からみたヌードで読み解く近現代史。
私の関心(裸体と着衣)と重なる部分が多々あり、学ぶところが多かった。
ただ、乳房を露出することの羞恥心や着物の着方についての感覚にややズレがあるような気がした。
と言うか、どの社会階層に視点を置いて考えるかの違いかも。
著者は中流以上の感覚で、私は中流以下で見ているのかも。
女性でも肉体労働をする中流以下の階層では、着物はそんなにしっかり着ていない。
襟袷が緩やかで、裾が開くざっくりした着付けはむしろ普通。
乳房が露出することへの羞恥心も階層がさがるほど薄くなると思う。
ちなみに、著者とは武田佐知子先生編の論集『着衣する身体と女性の周縁化』思文閣出版 2012年4月)で、ご一緒したが、残念ながらお会いしたことはない。
45歳で大学院に入って学び直した晩学の方で、世代的にも近く(私が4歳上)、なんとなく親近感を覚える。
いつか、直接、お話をうかがいたいと思った。

18時40分、帰宅。
夕食は、鮭の西京漬を焼く。
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それと、3日続きのおでん。
いくらずぼらな私でも「3日続き」ということはしない。
なのに、なぜ、こんなことになったかと言うと、昨日、追加増量用のおでん種を、私と家猫さんが別個に買ってきてしまったため。
連絡ミスの「悲劇」。
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でも、まあ、おいしいからいいか・・・。

食後、4月から11月までの仕事(講演・ゲスト講義・研究報告)のレジュメをファイルに収納する作業。
ほぼ半年分で60シートの分厚いファイルがほとんど埋まってしまった。
以前は1年分で60シートだったのに・・・。

川崎市教育文化会館から講演依頼のメール。
今まで地元自治体(目黒区、川崎市)からは一度もお呼びが掛からなかった。
ようやく、ささやかながら地元に貢献できる。
うれしい。

お風呂に入って、ゆっくり温まる。
「日記」(昨日分)を書く。
就寝、3時。

11月5日(水)川本直『「男の娘」たち』をいただく [読書]

11月5日(水)  曇り   東京   17.6度   湿度57%(15時)

8時、起床。
朝食は、レーズンロールとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪と身体を洗う。
髪はよくブローして、あんこ(ソフトタイプ)を入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
黒地に白で唐草模様の(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、焦茶のトートバッグ。黒のカシミアのショール。

10時、家を出る。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻19、天平勝宝8歳(756)5月条の講読。
聖武太上天皇の葬送記事について。
「御葬の儀、仏に奉るが如くす」という記述、葬儀と仏教の日本における最初の結合ではないだろうか。
12時、終了。

昼食は、タイ家庭料理「クルン サイアム 自由が丘店」へ。
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カオ・マンガイ(鶏肉の炊き込みご飯)を注文。
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辛酸っぱいスープ(トム・ヤム・クン)と生春巻がついて980円。
味は上々、すんなり食べられる。
ただ、鶏肉がもう少し多いとうれしい。

12時40分、東横線で学芸大学駅に移動。
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↑ 体調が良くないのが顔に出てる・・・。
13時、「仕事部屋」へ。
郵便物の整理だけしてすぐに再外出。

クロネコ鷹番営業所に寄って荷物を受け取る。
中身は、川本直さんが贈ってくれた『「男の娘」たち』(河出書房新社、2014年9月)。
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さっそく西口の「ドトール」で読み始める。
包装を解いて、本を出した時に、思わず「わ~」と言ってしまう。
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表紙のインパクトがすごい!。
鮮烈な赤の背景に超美貌の「男の娘」のアップ(モデルは、さつきさん)。
これは売れると思う。

「心からの敬意をこめて」という献呈の辞に感激して、1頁目を読みだしたら、いきなり私の名前と拙著の書名が出てきて驚く。
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「まえがき」の部分で「男の娘」の定義を「生れた時の生物学的性別が男性だった″トランスジェンダーのこと」としている。
これでいいと思う。
「男の娘」の多様な内実を踏まえた場合、包括概念としてのトランジェンダーでくくる以外に手がない。
私も「MtFのトランスジェンダー2010年代ヴァージョン」という認識をしている。

丁寧なインタビューの積み重ねで構成されていて、研究者ではないライターさんの本の長所がよく出ている。
私は2000、00年代までで、トランスジェンダーの「現場」をフォローするのを断念してしまった。
時間的・金銭的・体力的にきつくなってきたことに加えて、あまりにも世代的な隔たりを感じてしまうからだ。
なにしろ娘分と思っている井上魅夜さん(この本にも登場する)が「最近の若い者はわからないですよ」という時代なのだ。
だから、2010年代の「現場」をリアルに伝えるこの本は、いろいろな意味でありがたく、記載されている「男の娘」の生の語りから、研究者として考えさせられることが多い。
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「まえがき」の後半部分、短いが、著者のライフヒストリーが興味深い。
私は「女装者愛好男性」という存在を、日本で初めて分析した人なので・・・。
著者がなぜ、ここまで「男の娘」に入れ込むのか、その心理がかがうかがえる。

まだ、読み始めたばかりなので、詳しい感想はまた後日。
(続く)

10月15日(水)田中貴子『猫の古典文学誌』 [読書]

10月15日(水)  雨   東京   19.1度   湿度70%(15時)

8時、起床。
朝食は、カスタード・デニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪と身体を洗う。
髪はよくブローして、あんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
グレーの地に黒の唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、焦茶のトートバッグ。

10時、家を出る。
駅までの途中で雨が降り出す。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻19、天平勝宝8歳(756)4月条の講読。
聖武太上天皇の遺詔による道祖王の立太子と、孝謙朝の政治体制について。
光明皇太后、聖武太上天皇、孝謙天皇の三頭政治と見るか、実質、光明皇太后の朝廷と見るか?
なぜ、太上天皇の崩御にあたって皇太子が定められたのか?
天平宝字元年(757)7月12日条の孝謙天皇の宣命に「皇太后の朝」とあることを、どう理解するか?
12時、終了。

外に出ると本降りの雨。
気温が上がらず、肌寒いくらい。
東横線で学芸大学駅に移動。
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昼食は、ほとんど濡れずに行ける西口前の「てんや」へ。
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↑ オールスター天丼(720円)

東口駅前の「恭文堂書店」で、田中貴子『猫の古典文学誌―鈴の音が聞こえる―』(講談社学術文庫、2014年10月)を購入。
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プロローグ
第一章 「猫」という文字はいつごろから使われたか
第二章 王朝貴族に愛された猫たち
 ね・こらむ1 和歌のなかの猫
第三章 ねこまた出現
第四章 金沢文庫の猫
第五章 猫を愛した禅僧
 ね・こらむ2 犬に噛まれた猫
第六章 新訳 猫の草子
第七章 猫神由来
 ね・こらむ3 猫の島
第八章 江戸お猫さまの生活
第九章 描かれた猫たち
エピローグ
【付録】漱石先生、猫見る会ぞなもし

日本の猫の文学と歴史をたどった名著『鈴の音が聞こえる―猫の古典文学誌―』(淡交社、2001年)の文庫版による復刻。
東口商店街の「ドトール」で、早速、新たに収録された「漱石先生、猫見る会ぞなもし」を読む。
日本最初の猫の品評会は、大正2年(1913)4月5日に、上野の「精養軒」で、優勝は下谷黒門町(ほとんど地元)鈴木彦太郎氏の飼い猫「ミイ」(牡、三毛)で、商品は鰹節券5円だった。

田中さんの国文学者(中世文学・仏教説話)としての文献分析力と猫への限りない愛情とが、見事に合体した名著がわずか864円(税込)で読めるのは、すごくお得感がある。
私も、猫について書くときに必ず参照させていただいている。
(参照)2010年11月12日 石山寺縁起絵巻を読む(特講:日本古代~中世の猫-絵巻を中心に-)
http://zoku-tasogare-2.blog.so-net.ne.jp/2013-02-14-15

14時、「仕事部屋」へ。
郵便物の整理。
1時間半ほど昼寝。

17時、再外出。
自宅最寄り駅前の「ドトール」で読書の続き。
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↑ 最近、お気に入りの「ピクルス・ドッグ」。

18時半、帰宅。
夕食は息子の希望で肉。
豚ばら肉を焼く。
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牛はらみ肉を焼く。
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野菜炒めを作る。
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食後1時間ほど眠る。
溜まっている「日記」を書く。
お風呂に入って温まる。
就寝、4時。

小長谷正明『医学探偵の歴史事件簿』を読む [読書]

4月8日(火)
小長谷正明『医学探偵の歴史事件簿』(岩波新書 2014年2月)を読む。
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著者の小長谷正明博士(こながや まさあき、1949年~)は、国立療養所鈴鹿病院院長をつとめる精神内科医。
『ヒトラーの震え毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀』(中公新書、1999年)、『ローマ教皇検死録 ヴァティカンをめぐる医学史』(中公新書、2001年)など、神経内科医の立場から歴史上の「病」を分析した著作がある。

私は医者の家に育った歴史研究者なので、若い時から医学史・疾病史に興味があり、日本におけるその分野の開拓者である立川昭二先生(1927~)の本を読み漁った。
今でも、この種の本には手が伸びてしまう。

『医学探偵の歴史事件簿』は、「歴史を動かした病気の謎を解く」というコンセプトで、26の歴史上の事件に関する医学的な分析がまとめれている。
中でも、第2部「近代日本史の曲がり角」3章の「終戦時厚木基地反乱事件―首謀者のマラリア発作―」が臨場感いっぱいで抜群でおもしろい。
著者の父君小長谷睦治氏は、終戦時、海軍航空部隊の主力である第三航空艦隊参謀で、その任務から終戦の詔勅が発布された直後に始まる「厚木基地反乱事件」の対応に当たった。
反乱の首謀者である厚木基地に駐屯する302航空隊司令の小園安名海軍大佐は、南方戦線でマラリアに感染していて、反乱後の8月18日に発作を起こす。
20日、マラリアの高熱で錯乱状態になったところを強制的に病院に収容し、厚木基地の反乱は潰える。
そして、28日厚木基地は無事に進駐軍先遣隊(チャールズ・テンチ大佐)を迎えることができた。

「厚木基地反乱事件」は、終戦時に日本軍で起きた抗命事件の中でも最大規模のもので、場所が場所だけに(帝都防衛の拠点として人員・兵器ともにレベルを保っていた)、小園大佐のマラリア発作が起こらなかったとしたら、鎮圧が遅れて、当初は23日に予定されていた進駐軍先遣隊の厚木基地到着、その後の日本占領の展開に影響した可能性が大だった。

なにより、その場にいた関係者(父君)から著者(子)が直接聞いた話というのは、資料価値が高い。
現在、終戦時に現役だった方は、ほとんど亡くなりつつある。
そして、その語りを聞いた子ども世代も次第に老境になっている。
私も父から聞いた話を、しっかり文字記録にしないといけない(と思いつつ、なかなか時間が取れない)。

もう1つ、興味深かったには、第5部「いにしえの病を推理する」5章の「ハプスブルグ純系王朝」。
高貴な血を維持するため極端な近親婚が重ねられ、その結果、劣性遺伝子が現れ、いろいろな遺伝疾患によって王統が衰弱していく様子がよくわかる(そして断絶)。
スペイン・アルスブルゴ王朝の最後の王カルロス二世(1661~1700)の場合、兄弟婚の場合でも0.25の近交係数(いとこ婚だと0.0625)が0.254と算出されるとのこと。
そりゃあ、知的障害や身体障害が頻発して当たり前というか・・・。
異常な下顎突出と巨舌による咀嚼障害・常時流涎・発音障害、発育障害(8歳まで歩けず)、尿道下裂、晩年は幻覚、痙攣発作。
遺伝疾患は本人のせいではないわけで、こんな心身の状態で王位に就かなければならないなんて、なんともかわいそうだ。

ところで、江戸時代の日本では、中流以上の武家などでは、いとこ婚がしきりに行われた。
ほぼ同じ家格で婚姻を繰り返すので、どうしても近親婚の傾向が強くなる。
いとこ婚は、日本の民法では合法(近親相姦にならない)が、遺伝学的にはあまりよろしくない。
明らかな遺伝病が出る確率が他人婚に比べて4倍も高くなるという調査がある。
私も父方(下館藩)の祖父と祖母がいとこ婚で、母方(会津藩)も「ご同役」の3家で婚姻を重ねている。
その悪影響がいろいろ出ているように思う。
家系の衰弱の根本的な原因は、そこにあるような気がしてならない。


イザベラ・バード『朝鮮紀行~英国婦人の見た李朝末期 』を読み始める [読書]

12月18日(水)
(続き)
昼食は、久しぶりに回転寿司「魚臣(ぎょしん)」へ(6皿)
ビルの地下深く(B2?)にあって、ちょっと怪しい自由が丘郵便局に寄って、花魁道中の絵葉書(1050円)の代金振込み。

東急東横線で渋谷に移動。
「東急プラザ」の「紀伊国屋書店」で本と五万分の1地図(一関、水沢、北上の3枚)を購入。
地図は、桓武朝の「蝦夷征討」の激戦(官軍大敗)「衣川の戦」の地理的環境を確認するため。
本は、2冊。
倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ 2013年12月 1785円)
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渡辺信一郎『江戸の色道: 古川柳から覗く男色の世界』(新潮選書 2013年8月 1260円)
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桜坂町の「エクセルシオール カフェ」でコーヒーを飲みながら読書。
少し時間がとれるようになったら読もうと思っていた分厚い(584頁)イザベラ・バード著(時岡敬子訳) 『朝鮮紀行~英国婦人の見た李朝末期 』(講談社学術文庫 1998年)を読み始める
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『日本奥地紀行』で知られる19世紀イギリスの大女性旅行家イザベラ・バード(1831~1904)の晩年の旅行記。
1894年~1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅したときの紀行文をまとめたもので、開国を強いられたばかりの「隠者の国」朝鮮の実相がリアルに記録されている。
原著は1898年の刊行で、その序文に駐朝イギリス総領事を務めたウォルター・C・ヒリアーがこんなことを書いている。
「現在朝鮮が国として存続するには、大なり小なり保護状態におかれることが絶対に必要であることは明白であろう。日本の武力によってもたらされた名目上の独立も朝鮮には使いこなせぬ特典で、絶望的に腐敗しきった行政の重荷に朝鮮はあえぎ続けている」(4頁)
19世紀末のイギリス知識人の朝鮮観として興味深い。

朝鮮の王権(李朝)に、近代国家として独立自存していく行政能力が決定的に不足しており、どこかの国の「保護」が必要であるという認識は、当時の極東情勢に通じた人たちの、すべてとは言わないが、かなり普遍的なものだったのではないだろうか。
問題は、どこの国の保護下に入るかであり、1898年の段階では、ロシアと日本がせめぎ合っていて、ロシアが優勢という情勢。

現実の「未来」は、1904年の日露戦争での日本の勝利、1905年9月のポーツマス条約(英米ロがが日本による朝鮮の保護国化を容認)、1905年11月の第二次日韓協約による保護国化、1910年の日韓併合となるわけだが、もし、日本が朝鮮を保護国化しなかった場合、旧宗主国である清国にもうその力がない状況では、朝鮮がロシアの保護国になったのはまず間違いないところだろう。
その流れだと、1917年ロシア革命のときに朝鮮は独立できたという説もあるが、そのままソビエト連邦に組み込まれ(16番目の共和国)、早々と共産化した可能性も多分にある。
朝鮮の人々にとっては、その方が良かったのだろうか?
(続く)


エドワード・モース『日本その日その日』 [読書]

8月14日(水)
この数日、やっと夏休み気分になったものの、外はあまりに暑いので、外出は控え、普段、気ぜわしくて読めなかった本を読んでいる。
昨日からは、モース博士の日本滞在記『日本その日その日』(講談社学術文庫 2013年6月)を読んでいる。
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エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838~1925年)は、アメリカの動物学者(専門は腕足類)。
1877年(明治10)6月、39歳のときに腕足動物の種類が多く生息する日本で標本を採集するため横浜に到着。
採集の許可を求めるため横浜から東京の文部省に赴く途中、汽車の窓から大森貝塚を発見する。
訪問先の文部省で東京大学の初代動物学・生理学教授への就任を請われて受諾。
日光への採集旅行、江ノ島臨海実験所の設置、日本初の学術的発掘となる大森貝塚の調査、日本初となるダーウィンの「進化論」の本格的な講義、公開講演などを行った。
11月、いったん帰国して準備を整え、1878年(明治11)4月、家族を伴って東京大学に帰任。
数々の講義や公開講演を通じて、日本の動物学の基礎を築くとともに、多くの研究者を育てた。
また、物理学のトマス・メンデンホール、哲学のアーネスト・フェノロサなど専門知識を持つ外国人教授の招聘に尽力、大量の書籍を東京大学図書館に寄贈するなど、草創期の東京大学の基盤整備に大きな役割を果たした。
しさらに、日本の考古学や民俗学の草創にも影響を与えた。
この間、北海道、長崎・鹿児島と日本の南北を調査旅行している。
1879年(明治12)8月末、東京大学教授を満期退職し、9月3日離日した。

1882年(明治15)(44歳)6月、日本美術研究家のビゲロー(William Sturgis Bigelow)を伴って3度目の来日。
各地で講演するとともに、7月下旬から9月上旬まで、フェノロサ、ビゲロ-らと、京都から瀬戸内海方面にへ陶器・民具・武具・書籍などを収集する旅行をした後、1883年2月に離日した。

帰国後は、セイラムの『ピーボディー科学アカデミー』(1992年以降のピーボディ・エセックス博物館)の館長となり、アメリカ科学振興協会の会長などを務めながら、日本とアメリカの学術・文化交流に尽力した。

その功績により、1922年(大正11)、日本政府から勲二等瑞宝章を授けられた。
1925年(大正14)、セイラムの自宅で逝去、87歳。
その蔵書12000冊は、遺言により関東大震災(1923年)で壊滅した東京大学図書館に寄贈された。

『Japan Day by Day』(日本語訳題『日本その日その日』)は、1913年、75歳になったモースが、30年以上前の日記(明治10~12、15~16年)とスケッチをもとに執筆し、1917年に刊行された日本滞在記。
その12年後の1929年(昭和4)にモースの弟子である動物学者・東京大学農学部教授石川千代松(1860~1935)の子石川欣一(1895~1959)によって全訳が科学知識普及会から刊行された。
その後、1939年(昭和14)、2章を除いて「創元選書」の1冊として刊行された。
講談社学術文庫版は、これをもとにしている。
このほか、1970~71年に平凡社から刊行された「東洋文庫」版の3冊本がある。
学生の頃に拾い読みしたはずだが、当時と今では私の関心が全く違うので、あまり覚えていない。

この滞在記のなによりの魅力は、科学者の客観的で冷静な視線で記録された、江戸の気風が色濃く残る瑞々しい明治初期日本の姿。
そして、庶民の生活と文化に向けられたモース博士の旺盛な関心とあたたかな視線が、この滞在記をより楽しいものにしている。
モース博士は、日本の街の清潔さ、人々の正直さ、明朗さ、礼儀正しさ、心遣いに敬意を抱くとともに、そうした気質が上・中流階層だけでなく、人力車夫や船頭などの社会の下層に属すると思われる人々にまで及んでいることに驚く。
そして「自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を日本人は生まれながらに持っているらしい」とまで言う。
ちょっと褒め過ぎではないかと思わないわけではない。
しかし、裏返せば、近代文明にはさまざまな悪徳が伴っていて、明治10年前後の日本はまだその影響をあまり受けていなかったということだろう。
それから間もなくして日本も近代の悪徳にとっぷりと染まっていくことになる。
だからこそ、現代の私たちから見ても、モース博士が見た日本は貧しくても限りなく美しいのである。

私の関心である性風俗史は、モース博士がきわめて真面目な方であるため、残念ながら関係する記述は少ない。
それでも、博士が来日した明治10年の夏、横浜の艀(はしけ)人足や人力車夫のような肉体労働者の男性は、「犢鼻褌(ふんどし)だけを身につけ」て働いていたこと(11頁)、「往来のまん中を誰はばからず子供に乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける」こと(16頁)、旅人たちの「中の娘二人が肌を脱いで泉に身体を拭きに行った」こと、そして外国男性が「見ているのに気がつくと」「外国人がこんな動作を無作法と考えることを知って、恥ずかしそうに、しかし朗らかに笑いながら、肌を入れた」こと(54頁)などが『記されている。

こうした江戸時代以来の日本人の裸体感覚は、1872~73年(明治5~6年)の「裸体禁止令」(「違式註違条例」の裸体往来禁止の条)以降も、実態的にはそれほど変わっていないことがわかり、資料として貴重。
泉で水浴する娘たちは、男性に肌を見られたことを恥ずかしいと思っているのではなく、外国人が嫌う無作法(女性が肌を見せること)をしてしまったことを恥じている。
だから現代の女性のように悲鳴を上げて逃げるのではなく、朗らかに笑っていられるのだ。

女性には関心を示さないモース博士だが、なぜか女性の髪形には関心があったようで、女髪結に髷を結ってもらっている婦人(46頁)と、「最新流行の髷」(232頁)の2枚のスケッチを残している、
後者は前後から丁寧にスケッチしていて、よほど関心があったのだと思う。
(他にもちょん髷のスケッチ集もある)
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↑ これは鉄漿(おはぐろ)をつける婦人。

私は、日本の近世から近代への転換、そして日本の伝統的な習俗や文化を相対化するためには、来日外国人の記録は欠かせないと思っているので、かなり集めている。
ただ、なかなかじっくり読む時間がとれない。
いつになったら、そういう時間が取れる日が来るだろうか。