SSブログ

20世紀末(1990年代前半)の商業女装クラブ(その23)だから書く [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月21日(火)

この1週間ほど、30年前(1990年代前半)の商業女装クラブ「エリザベス7会館」について、そこで4年余を過ごした私の「思い出(昔話)」として書いている。

「エリザベス会館」は「女装世界の北朝鮮」と言われたように、言論統制が厳しく、そこで何が行われていたかの記録は意外に乏しい。

その点、書けるうちに、私の体験と知っていることを書き留めておく価値はあるだろう、と思って書いている。

30年後の現在からしたら、ルッキズム(容姿至上主義)むき出しの、性的マイノリティの人権などという概念もほとんどない世界で、腹立たしく思う人も多いと思う。

しかし、現在のように性的マイノリティ、とりわけトランスジェンダーの人権を主張できる社会になるまでには、そうした現在の価値観からしたら「ありえない」「とんでもない」世界を通過してきたことは、間違いない歴史事実なのだ。

そうした「ありえない」世界を、不愉快だからといって「なかったこと」にしていいのか?と言えば、私はそこをくぐり抜けてきた当時者として、歴史研究者として、そうは思わない。

だから、私は書く。

nice!(0)  コメント(0) 

20世紀末(1990年代前半)の商業女装クラブ(その22)黒のパーティードレス [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月21日(火)

1991年4月、「エリザベス会館」に通うようになって10カ月、冬のコンテストで新人賞をもらって4カ月、夏のフォトコン(全日本女装写真コンテスト)の応募写真を作る時期になった。

勇気を出して「エリザベス会館」に来たのだから、部門賞の1つも撮りたい、と欲が出る。
狙いは、前年(1990年、第7回)のフォトコン、独力で3位入賞したポーズ賞。

でも、まともな服がない(お金がなくて買えない)。

で、冬のコンテストの新人賞の賞品でもらった黒のパーティードレスの出番となった。

オーソドックスな七分身の撮り方もしたが、どうもポーズ的に面白くない。
910425-2(2).jpg

いろいろ試行錯誤し、このドレスの特徴(スカート部分が3段)も考えて、真横、お尻突き出しポーズの全身像になった。
910425-1 (2).jpg腕の組み方も工夫。

全体として「お人形」っぽさを意識した。

結果は,悲願のポーズ賞には届かず。
思いもしなかった準グランプリ受賞となった
nice!(0)  コメント(0) 

20世紀末(1990年代前半)の商業女装クラブ(その21)ノードーピング [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月20日(月)

誤解があると困るので、念のため書いておきますが、この数日アップしている「エリザベス会館の思い出」シリーズの私の写真は、女性ホルモン投与をしていないノードピングです。
(私の女性ホルモン投与開始は1999年夏から)

つまり、年齢的には35~39歳の、まったく普通の男性の身体です。

901022-2 - コピー.jpg
画像は1990年10月22日撮影。


nice!(0)  コメント(0) 

フジテレビのCMキャンセル [世相]

1月20日(月)

フジテレビのCMキャンセル、日本生命、トヨタ自動車、明治安田生命、アフラック、NTT東日本に加えて、第一生命、花王、日産自動車も。
さらに、セブン&アイ・ホールディングス、日本マクドナルド、サッポロビール、ダイハツ工業、スズキなど。

それにしても、男女混合の食事会をセットしておいて、直前に中居と女性アナウンサー1人だけを残し
てキャンセルするって、だまし討ちに等しい。
その結果、「トラブル」になり、9000万円という巨額の示談金ということは、誰が考えても、性加害があったということだろう。

CM差し止め、19日5社、20日朝10社だったのに、14時15社、19時46社に。
まだまだ広がりそう。
フジテレビCMキャンセル.jpg

今(20日19時過ぎ)、フジテレビをチェックしたら、5本のCMが、4本連続でACジャパン。
残り1本は弁護士事務所(B型肝炎給付金)。
これはもう駄目だろう。
nice!(0)  コメント(0) 

20世紀末(1990年代前半)の商業女装クラブ(その20)新人賞を受賞 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月20日(月)

「胸(バスト)がないならお尻(ヒップ)を出す」
短所を隠して長所をアピールするのは道理に適っている。

900906(2).jpg
1990年9月8日の撮影。
「エリザベス会館」に通い出して、たしか5回目。

アメリカのショーガール風のファッション・コーディネートと撮影は、ルームの世話係で、私の教育係になってくれたDさん。

若い頃はきっとモテただろうと思われるチャーミングな女性だった。
最初に記した言葉も,彼女の教え。

この写真で、1990年冬のコンテストで新人賞を受賞。
長年抱えていた容姿コンプレックスから脱するきっかけになった作品。

nice!(0)  コメント(0) 

20世紀末(1990年代前半)の商業女装クラブ(その19)Dさんとの思い出 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月20日(月)

「エリザベス会館」の談話室(ルーム)には世話係の女性スタッフがいた。

世話係の仕事は、ルームの客の応対と管理だが、1回1枚が基本料金に含まれているポラロイド写真の撮影も重要だった。
さらに、別料金を払えば、ネガフィルムの撮影もしてくれた。

私が通い始めた頃(1990年)には,世話係は2人いた。
1人はボーイッシュなYさん。
レズビアンという噂があった。

もう1人がDさん。
私よりたしか2歳上の30代後半、小柄だが、若い頃はきっとモテただろうと思われるチャーミングな女性だった。

常連の会員さんは、Yさん派とDさん派に分かれていた。
私は、Dさんと気が合い、ポーズ練習のトレーナーをお願いした。

ある時、Dさんがこんなことを言った。
「順子ちゃん、あなたは、何1000人に1人かの女顎なのよ。このクラブでたくさんの女装する男たちを見てきた私が言うのだから間違いないわ。だから頑張りなさい」

ずっと容姿コンプレックスが強く、新人賞をもらって、少しは自信をもったものの、まだコンプレックスが抜けきっていなかった私にとって、「何1000人に1人の女顎」の評価は。とてもうれしく、自信になった。

以後、フェイスライン(とヒップライン)を意識した写真(後ろ向き見返りポーズ)を撮るようにな
る。

910828-1 - コピー.jpg 910828-2 - コピー.jpg
1991年8月28日撮影。
ポーズ指導&撮影はDさん。
表情(流し目)の指導も
正直、女性の前で、このポーズをとるのかなり恥ずかしかった。
でも、Dさんとの撮影というと、この写真を思い出す。
nice!(0)  コメント(0) 

20世紀末(1990年代前半)の商業女装クラブ(その18)メイクの師匠 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月20日(月)

「エリザベス会館」のメイクシステムは単純で、手が空いたメイクさんに順番で入る。
客はメイクさんを選べない。

私も、最初のうちは、3人いたメイクさんに一渡りやってもらった。

ところが、新人賞をもらった後、初来館から半年が経った頃(1991年の初頃)、いちばんベテランのメイクさんが
「順子のメイクは、私がやるから、手が空くまで待ってなさい」
と言い出した。

私も3人のメイクさんの中でいちばん上手(レベルが違う)なのはわかっていたから、
「はい、よろしくお願いします」

水村ひろ子さんという、当時、50代後半の小太りの下町のおばさんだったが、テレビ業界初期からテレビ局の専属メイキャッパーだった、職人肌の人だった。

「エリザベス」のメイクは、強いストロボ光を正面から当てる(で、髭の影を飛ばす)撮影法に耐えられる、濃いメイクで、良く言えば演劇的、悪く言えば目の周囲が青黒い「狸メイク」だったが、水村さんはナチュラル風のメイクもできた(プロなのだから当たり前だが)。

女装メイクの名人としては、大阪「パレットハウス」の森田さんが有名だが、私は、東の水村、西の森田だと思っている。

「エリザベス」では、客にメイクは教えない。
教えて、自分で化粧できるようになると、来なくなるからだ。

客は、化粧台に座ると、「目を瞑って」と言われ、化粧が終わると「はい、目を開けて」と言われる。
で「きれいになったでしょう」という営業の仕方。

だから、10年せっせと通っても、化粧できない人はいくらもいた。
そもそも,化粧用具(コンパクトやルージュ)を持っていないから、メイク直しもできない。

私は、水村さんにメイクをしてもらうようになってから、
アイシャドーを一刷毛した後、「すいません」と手を止めてもらって、「今、塗ったのはどの色ですか?」と尋ねるようになった。
面倒な客だと思ったと思うが、たくさんの色が並んでいるプロ用のパレットの一色を指さしてくれた。

つまり、教えてはくれなかったが、盗ませてくれた。

だから、私のメイクの師匠は水村さんだ。

921019-1(3).jpg
画像は、1992年10月19日撮影。
名人・水村さんのメイク。
この写真、『週刊実話』1993年6月17日号に載った。
「[おんなの“武器”エロス・ウォーズ最前線]女装第一人者 三橋順子さん」


nice!(0)  コメント(0)