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紫式部の女房名と出仕時期 [テレビ批評(光る君へ)]

6月30日(日)

「光る君へ」(第26回)「いけにえの姫」

ドラマの設定はともかく、紫式部の前歴はほとんど不明で、発出仕の時期も諸説ある。

そこで、注目すべきはた「式部」という女房名。
当時の慣例として女房名は、父や夫の官職からつける。
式部の場合、父・藤原為時の官職(式部大丞)に由来すると思われる。

とすれば、永延元年(987年)の源倫子・藤原道長の結婚に際し、倫子付きの女房として出仕していた可能性がある。

ちなみに、倫子と式部は、ともに右大臣・藤原定方を曾祖父とする遠縁。

出仕が、為時の越前守就任(長徳元年=995)以後なら、女房名は「越前」になるはずだからだ。

さらに、現代、通説になっている(『紫式部日記』に記されている)寛弘2年(1006)が初出仕だとすれば、女房名は夫・藤原宣孝の最終官歴・山城守にちなんで「山城」になるはずだが、そうではない。
(先に同じ名の女房がいれば別)。

私は、永延元年(987年)頃、出仕説を支持している。



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彰子、登場 [テレビ批評(光る君へ)]

6月30日(日)

「光る君へ」(第26回)「いけにえの姫」
彰子.jpg
裳着の時(長保元年=999)彰子はまだ数えで11歳。
道長・倫子夫妻でなくとも、、ますます妖艶さを増す中宮・定子と「勝負にならない」のは明らか。

それにしても、あの幼い無口な姫君が、腰結い役を務めてくれた女院様(東三条院)をしのぐ大女院(上東門院)になろうとは。

姉を小馬鹿にしていた田鶴君(たづ:頼通)の50年に及ぶ長期安定政権をもたらしたのはこの姉の力。


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「傾国の中宮」 [テレビ批評(光る君へ)]

6月30日(日)

「光る君へ」(第26回)「いけにえの姫」

出家してもなお一条天皇の愛を一身に集める中宮・定子を、藤原実資が「傾国の中宮」と批判。
そもそも一夫多妻制の社会で、権力者が特定の妻だけを過剰に寵愛するのは、政治の乱れにつながることは、唐・玄宗皇帝と楊貴妃の故事など、当時の常識。

まして、一度、出家した女性を寵愛し、子まで儲けるのは、当時の倫理観からして、許されることではない。

天皇の不徳が天変地異の頻発につながるのは「天人相関説」が信じられていた当時では当然。

天人相関説-----中国思想の用語で、天と人との間に密接な関係があり、相互に影響を与えあっているという古代中国の思想 。天人感応説とも言う 。

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