最後に医学生に伝えたいこと [お仕事(講義・講演)]
1月27日(金)
「医系の人類学」の講義の最後に、教授から「医学生に伝える言葉をお願いします」と言われ、次のように述べる。
「診察室だけに籠る医師にはならないでほしい。治療を求める患者さんにはそれぞれの人生があります。そしてそれは社会につながっています。そこに目が向く広い視野をもった医師になってほしいと思います。」
「医系の人類学」の講義の最後に、教授から「医学生に伝える言葉をお願いします」と言われ、次のように述べる。
「診察室だけに籠る医師にはならないでほしい。治療を求める患者さんにはそれぞれの人生があります。そしてそれは社会につながっています。そこに目が向く広い視野をもった医師になってほしいと思います。」
1月27日(金) [お仕事(講義・講演)]
1月27日(金)
今日は群馬大学医学部の(年に1度の)出張講義。
「コロナ禍」で2020・2021年度はZoom講義だったので、前橋への出張は3年ぶり。
2009年度から始まったこの講義も14年目。
で、たぶん、これが最後になる。
医者の家に生まれながら、医者になるのが嫌で医学部に行かなかった私が、医学部の非常勤講師を14年も務めるなんて、ほんとうに不思議なご縁だった。
頑張ってくる。
今日は群馬大学医学部の(年に1度の)出張講義。
「コロナ禍」で2020・2021年度はZoom講義だったので、前橋への出張は3年ぶり。
2009年度から始まったこの講義も14年目。
で、たぶん、これが最後になる。
医者の家に生まれながら、医者になるのが嫌で医学部に行かなかった私が、医学部の非常勤講師を14年も務めるなんて、ほんとうに不思議なご縁だった。
頑張ってくる。
1月26日(木) [お仕事(出演・取材協力)]
1月26日(木)
明日は群馬大学医学部の(年に1度の)出張講義で朝が早いので、休養。
のつもりが、写真週刊誌『FLASH』から取材の依頼メール。
明日は、一日中、対応できないので、夕食の片づけをした後、21時半から電話取材を受ける。
まあ、仕方がない。
それに、週刊誌は新聞と違って、少しだけどコメント料はくれるし(笑)。
明日は群馬大学医学部の(年に1度の)出張講義で朝が早いので、休養。
のつもりが、写真週刊誌『FLASH』から取材の依頼メール。
明日は、一日中、対応できないので、夕食の片づけをした後、21時半から電話取材を受ける。
まあ、仕方がない。
それに、週刊誌は新聞と違って、少しだけどコメント料はくれるし(笑)。
1960年代のゲイ世界 ー映画『老ナルキソス』に寄せてー [性社会史研究(性別越境・同性愛)]
1月26日(木)
東海林毅監督の新作映画『老ナルキソス』の主人公・山崎は、80歳手前という年齢設定。
とすると、彼とその仲間たちが若者だったのは1960年代の後半。
2022年基準で25歳だったのは1968年、大学卒業の22歳とすれば1965年。
その頃の東京のゲイは、どこに集っていたのだろうか?
これかなり、難しく微妙な問題。
私や石田仁さんの研究では、1965年だと、新宿二丁目「ゲイタウン」はまだ存在しない。
新宿だと、三丁目に「イプセン」、区役所通りに「アドニス」、二丁目に「ぼんち」、あとは無くなってしまった「千鳥街」に数軒、中央街から「要通り」に移る「蘭屋」くらいか。
二幸(アルタ)裏の「夜曲」は店主が殺害された後、もう閉店していると思う。
お店が少ないだけでなく、それなりの料金なので、22歳の青年はボーイとして働くことはできても、客として遊ぶのは無理だと思う。
これが1968年だと、様相が変わってくる。
二丁目「ゲイタウン」の形成期で、ゲイ系のお店の数が急速に増えていく。
働ける店も増えただろうし、お金がある身分なら客としても通える。
若くてお金がなくても、年上の客がおごってくれる。
あとは、満員電車、公衆トイレ、映画館、出来始めた一般のサウナなど(石田さんの教示による)、
この時代の若者だと、「店」より、野外ハッテン場だったかもしれない。
夏休みの湘南・江の島とか。
その点、映画の中で、海辺の漁具小屋みたいなところでハッテンしている描写は、歴史的に妥当性が高いと思う。
ともかく、この時代のゲイ世界のことは、聞き取り調査が乏しく、よくわからない。
その点、ある程度のことがわかっている女装世界とは対照的だ。
もし、山崎老人が実在の人なら、石田さんなり私なりがインタビューを申し込んでいるだろう。
で、偏屈なので断られる(笑)
東海林毅監督の新作映画『老ナルキソス』の主人公・山崎は、80歳手前という年齢設定。
とすると、彼とその仲間たちが若者だったのは1960年代の後半。
2022年基準で25歳だったのは1968年、大学卒業の22歳とすれば1965年。
その頃の東京のゲイは、どこに集っていたのだろうか?
これかなり、難しく微妙な問題。
私や石田仁さんの研究では、1965年だと、新宿二丁目「ゲイタウン」はまだ存在しない。
新宿だと、三丁目に「イプセン」、区役所通りに「アドニス」、二丁目に「ぼんち」、あとは無くなってしまった「千鳥街」に数軒、中央街から「要通り」に移る「蘭屋」くらいか。
二幸(アルタ)裏の「夜曲」は店主が殺害された後、もう閉店していると思う。
お店が少ないだけでなく、それなりの料金なので、22歳の青年はボーイとして働くことはできても、客として遊ぶのは無理だと思う。
これが1968年だと、様相が変わってくる。
二丁目「ゲイタウン」の形成期で、ゲイ系のお店の数が急速に増えていく。
働ける店も増えただろうし、お金がある身分なら客としても通える。
若くてお金がなくても、年上の客がおごってくれる。
あとは、満員電車、公衆トイレ、映画館、出来始めた一般のサウナなど(石田さんの教示による)、
この時代の若者だと、「店」より、野外ハッテン場だったかもしれない。
夏休みの湘南・江の島とか。
その点、映画の中で、海辺の漁具小屋みたいなところでハッテンしている描写は、歴史的に妥当性が高いと思う。
ともかく、この時代のゲイ世界のことは、聞き取り調査が乏しく、よくわからない。
その点、ある程度のことがわかっている女装世界とは対照的だ。
もし、山崎老人が実在の人なら、石田さんなり私なりがインタビューを申し込んでいるだろう。
で、偏屈なので断られる(笑)
1月25日(水) [日常(通院)]
1月25日(水)
整体マッサージで、疲労物質が血中に出たせいで、夕食後、眠くなり、21~1時、約4時間も熟睡。
起きだして、お風呂に入り、1時半~4時半、3時間ほど、論文の手入れ。
就寝、5時半。
整体マッサージで、疲労物質が血中に出たせいで、夕食後、眠くなり、21~1時、約4時間も熟睡。
起きだして、お風呂に入り、1時半~4時半、3時間ほど、論文の手入れ。
就寝、5時半。
群馬県の人口動態(2022年12月) [世相(新型コロナ肺炎関連)]
寒い朝 [日常(思い出)]
1月25日(水)
電車通学していた高校時代、朝6時43分の電車に乗るため、6時半に家を出ていた。
秩父は真冬だと、氷点下6~7度は当たり前で、時には-10度になる。
駅に着いて、友人に「おはよう」と挨拶すると、彼の前髪が白く凍っている。
で、自分の髪に触れると針のような氷が。
整髪料がなく水で髪をとかして、すぐに家を出るので、凍ってしまうのだ。
そんな50年前のことことを思い出した寒い朝。
電車通学していた高校時代、朝6時43分の電車に乗るため、6時半に家を出ていた。
秩父は真冬だと、氷点下6~7度は当たり前で、時には-10度になる。
駅に着いて、友人に「おはよう」と挨拶すると、彼の前髪が白く凍っている。
で、自分の髪に触れると針のような氷が。
整髪料がなく水で髪をとかして、すぐに家を出るので、凍ってしまうのだ。
そんな50年前のことことを思い出した寒い朝。