結城市の講演のPP資料を作る [お仕事(講義・講演)]
12月24日(金)
夜中、3時間半ほどかけて、年明け1月30日の茨城県結城市の男女平等参画推進講演会のPP資料を作る。
これで、明日、レジュメに転記すれば、1月の3つの講演&特別講義の準備が終わる。
就寝、5時半。
夜中、3時間半ほどかけて、年明け1月30日の茨城県結城市の男女平等参画推進講演会のPP資料を作る。
これで、明日、レジュメに転記すれば、1月の3つの講演&特別講義の準備が終わる。
就寝、5時半。
「娘は結婚するまで男性と性交渉をもってはいけない」という性規範 [性社会史研究(一般)]
12月24日(金)
「娘は結婚するまで男性と性交渉をもってはいけない」という性規範は、江戸時代の武家の儒教的倫理観と、明治期に入ってくるキリスト教的倫理観が、不思議に共通していて、それが合体して明治政府の学校教育によって、一般庶民にまで広められたと思われる。
逆に言えば、江戸時代の庶民、都市の中・下層の町人の娘や農村の娘が、そうした性規範をもっていたとは、とても思えない。
たぶん史料的にも見当たらないと思う。
つまり、「娘は結婚するまで男性と性交渉をもってはいけない」という性規範は、武家の性的規範が(武家がなくなった)明治時代において庶民に広められた「侍(さむらい)ゼーション」(梅棹忠夫先生)の1つであると考えられる。
この性規範が、再び浮上するのは、戦後、1950年代。
アメリカ進駐軍にバックアップされたキリスト教系女性団体が「純潔教育」という形で、学校教育に入ってくることで、1960年代にかけて再度、普及される。
現在、「経口中絶薬が許可されると『性の乱れ』につながる」などと言っている連中の思想的背景は、だいたいそこらへんにある。
「娘は結婚するまで男性と性交渉をもってはいけない」という性規範は、江戸時代の武家の儒教的倫理観と、明治期に入ってくるキリスト教的倫理観が、不思議に共通していて、それが合体して明治政府の学校教育によって、一般庶民にまで広められたと思われる。
逆に言えば、江戸時代の庶民、都市の中・下層の町人の娘や農村の娘が、そうした性規範をもっていたとは、とても思えない。
たぶん史料的にも見当たらないと思う。
つまり、「娘は結婚するまで男性と性交渉をもってはいけない」という性規範は、武家の性的規範が(武家がなくなった)明治時代において庶民に広められた「侍(さむらい)ゼーション」(梅棹忠夫先生)の1つであると考えられる。
この性規範が、再び浮上するのは、戦後、1950年代。
アメリカ進駐軍にバックアップされたキリスト教系女性団体が「純潔教育」という形で、学校教育に入ってくることで、1960年代にかけて再度、普及される。
現在、「経口中絶薬が許可されると『性の乱れ』につながる」などと言っている連中の思想的背景は、だいたいそこらへんにある。
ご生母様は側室ばかり [お仕事(講義・講演)]
12月24日(金)
明治時代までの上流階級は、基本、一夫一妻多妾制と言っても、受講生がなかなかイメージできないので、リスト化してみた。
明治天皇の母=中山慶子=孝明天皇の側室(典侍)
昭憲皇太后の母=新畑民子=左大臣一条忠香の側室
大正天皇の母=柳原愛子=明治天皇の側室(早蕨典侍)
貞明皇后の母=野間幾子(公爵・九条道孝の側室=中川の局)
香淳皇后の祖母=泉萬喜子(久邇宮朝彦親王家の女房)
香淳皇后の外祖母=山崎寿満子(公爵・島津忠義の側室)
もうご側室ばかり。
正妃(貞明皇后)から生まれた昭和天皇がどれだけ特異だったか、よくわかる。
同時に正妃でありながら4人の男子を産んだ貞明皇后はすごい!
明治時代までの上流階級は、基本、一夫一妻多妾制と言っても、受講生がなかなかイメージできないので、リスト化してみた。
明治天皇の母=中山慶子=孝明天皇の側室(典侍)
昭憲皇太后の母=新畑民子=左大臣一条忠香の側室
大正天皇の母=柳原愛子=明治天皇の側室(早蕨典侍)
貞明皇后の母=野間幾子(公爵・九条道孝の側室=中川の局)
香淳皇后の祖母=泉萬喜子(久邇宮朝彦親王家の女房)
香淳皇后の外祖母=山崎寿満子(公爵・島津忠義の側室)
もうご側室ばかり。
正妃(貞明皇后)から生まれた昭和天皇がどれだけ特異だったか、よくわかる。
同時に正妃でありながら4人の男子を産んだ貞明皇后はすごい!
12月23日(木)神経痛、悪化 [日常]
12月23日(木)
夕方~夜、寒さのせいか、腰から下、とくに左側に神経痛が出て、立っているのが辛い。
夕方~夜、寒さのせいか、腰から下、とくに左側に神経痛が出て、立っているのが辛い。