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第39回日本性科学会・学術集会シンポジウム2「歴史の中のLGBT」講演要旨 [お仕事(講義・講演)]

10月6日(日)

     第39回日本性科学会学術集会(鹿児島) 2019.10.06
        シンポジウム2「歴史の中のLGBT」

     「日本史の中のLGBT(のような人たち)」 
           三橋 順子

性的指向や性同一性の在り方が非典型な人は、人類のどの時代、どの地域にも普遍的に存在したと思われます。しかし、そうした人たちをどのように認識し、社会の中に位置づけるかは「文化」の問題であって、社会によって扱いは大きく異なります。たとえば、ユダヤ・キリスト教社会では同性愛や異性装を厳しく禁じていましたが、前近代の日本の宗教(神道・仏教)には、同性間の性愛や女装・男装を禁じる規範がありません。

つまり、キリスト教社会を基盤とした欧米文化の中で、性的指向や性同一性の在り方が非典型な人たちの政治的連帯を示す概念として生まれた「LGBT」を、前近代の日本の歴史に遡及させることは、社会。文化史研究者である私としては懐疑的にならざるを得ません。
ということで、「日本史の中のLGBT(のような人たち)」というテーマでお話しさせていただきます。

まずL(レズビアン)。女性同士の性愛は実態としては存在したはずですが、前近代の日本では概念化されていませんでした。したがって、ほとんど記録がありません。わずかに鎌倉時代中期(1259~1278年頃)に作られた『我身にたどる姫君』の第6巻は、主人公「前斎宮」が周囲の女性たちと次々に関係をもつストーリーがあるくらいで、他には江戸時代の春画に女性同士の性愛を描いたものが数点あるくらいです。

1つ飛ばしてB(バイセクシュアル)。女色(大人の男性から娘へ)と男色(大人の男性から若衆へ)が、現代の異性愛と同性愛のように固定されず、どちらに行くかに社会的制約がなかった時代には、両性愛的な概念は成立しようがありません。井原西鶴『好色一代男』(江戸時代前期、1682年)に、主人公世之介が生涯に交わった人数として「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と記されているように、女色・男色両方を体験してこそ、一流の色好みだったわけです。

次にT(トランスジェンダー)。『古事記』『日本書紀』におけるヤマトタケルの女装、神功皇后の男装に始まり、中世寺院社会の稚児、少女による稚児模倣である白拍子、江戸時代の歌舞伎の女形や、女装のセックスワーカー陰間(かげま)など、日本は世界の中でも最も異性装文化が花開いた国です(詳しくは拙著『女装と日本人』をご参照ください)。古典文学にも、関白左大臣の子供で、姫君として育てられた男子と若君として育てられた女子を主人公とする「とりかえばや物語」(平安時代末期、12世紀中頃?)などがあります。

さて、最後にG(ゲイ)。前近代の日本では、現代の東京新宿二丁目「ゲイタウン」などに見られる大人の男性同士の性愛は、平安時代後期の最上流貴族藤原頼長のように個人の欲望としてはあっても、社会システムとしては存在しません。つまり、男性同性愛=「男色」ではありません。

前近代日本の「男色」文化は、ほとんどすべて年齢階梯制を伴います。それは、能動の側としての年長者と受動の側としての年少者という役割が厳格に決められている男色の形態で、さらにジェンダー転換(女装)を伴うものと、伴わないものがありました。中世寺院社会の僧侶と女装の稚児の関係や、江戸時代の陰間などは前者の例であり、戦国~江戸時代の武士階層の「衆道(しゅどう)」は後者の例です。

薩摩藩の「兵児二才(へこにせ)」制には、強固な年齢階梯制と女性性嫌悪(misogyny)を特色とする男色文化が見られ、それが、明治維新後に東京に持ち込まれ、学校教育の普及とともに、軍人の養成学校や全国の(旧制)中学・高校に広がっていきました。 

三橋順子(みつはし じゅんこ)1955年生。性社会・文化史研究者。明治大学文学部非常勤講師。著書に『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)、『新宿『性なる街』の歴史地理』(朝日選書。2018年)。主な論文に「性と愛のはざま-近代的ジェンダー・セクシュアリティ観を疑う-」(『講座 日本の思想 第5巻 身と心』岩波書店、2013年)など。


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