「切所(せっしょ)」 [現代の性(同性愛・L/G/B/T)]
7月31日(火)
「切所(せっしょ)」という言葉がある。
もともとは、通るのが難しい「難所」とか「要害」という意味だが、転じて「勝負どころ」「正念場」「踏ん張りどころ」という意味でも使う。
合戦のとき、「ここが切所ぞ、退くな! 撃って出よ!」というような使い方をする。
今回の「杉田水脈『生産性』発言」は、日本のLGBTの人権にとって「切所」だったと思う。
誰が指示したわけではなく、多くの人が「ここは切所だ、ここで踏ん張らなければ」と直感したから、「撃って出た」のだと思う。
少なくとも私は「ここは切所だ」と思った。
だから、街頭大衆運動(デモ)が肌に合わず、ほとんど一度も参加したことがない私が、迷わず現地(自民党本部前)に行った。
その判断は、間違っていないと思っている。
もちろん「切所」は、これから何度もあるだろう。
闘わなければいけない時には闘う。
そうでなければ、やられてしまうから。
でも、「刀」を抜かなければならない状況は、少ない方がいい。
「切所(せっしょ)」という言葉がある。
もともとは、通るのが難しい「難所」とか「要害」という意味だが、転じて「勝負どころ」「正念場」「踏ん張りどころ」という意味でも使う。
合戦のとき、「ここが切所ぞ、退くな! 撃って出よ!」というような使い方をする。
今回の「杉田水脈『生産性』発言」は、日本のLGBTの人権にとって「切所」だったと思う。
誰が指示したわけではなく、多くの人が「ここは切所だ、ここで踏ん張らなければ」と直感したから、「撃って出た」のだと思う。
少なくとも私は「ここは切所だ」と思った。
だから、街頭大衆運動(デモ)が肌に合わず、ほとんど一度も参加したことがない私が、迷わず現地(自民党本部前)に行った。
その判断は、間違っていないと思っている。
もちろん「切所」は、これから何度もあるだろう。
闘わなければいけない時には闘う。
そうでなければ、やられてしまうから。
でも、「刀」を抜かなければならない状況は、少ない方がいい。
7月30日(月)やっと出口の明かりが見えてきた [お仕事(執筆)]
7月30日(月) 曇りときどき雨 東京 31.9度 湿度79%(15時)
明治大学文学部(駿河台)「ジェンダー論」のレポート読み。
夕方、義父が亡くなったので、いろいろ落ち着かず、あまり読めなかった。
やっと出口の明かりが見えてきた。
あと1日かな(〆切は8月3日)。
24日(火) 28本(3年1組読了)
25日(水) 41本(3年4組まで読了)( 69本)
26日(木) 70本(3年8組まで読了)(139本)
28日(土) 70本(3年13組まで読了)(209本)
29日(日) 35本(3年14組まで読了)(244本)
30日(月) 40本(4年7組まで読了)(284本)
-------------------------------------------------
残 り 41本(全325本)
明治大学文学部(駿河台)「ジェンダー論」のレポート読み。
夕方、義父が亡くなったので、いろいろ落ち着かず、あまり読めなかった。
やっと出口の明かりが見えてきた。
あと1日かな(〆切は8月3日)。
24日(火) 28本(3年1組読了)
25日(水) 41本(3年4組まで読了)( 69本)
26日(木) 70本(3年8組まで読了)(139本)
28日(土) 70本(3年13組まで読了)(209本)
29日(日) 35本(3年14組まで読了)(244本)
30日(月) 40本(4年7組まで読了)(284本)
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残 り 41本(全325本)
「それは、お幸せでなによりですぅ」 [現代の性(同性愛・L/G/B/T)]
7月30日(月)
「自分はなにも差別されていない」「同性愛者であることで困ってもいない」と言うゲイの人がいる。
私は、それはそれでいいと思う。
あちらも差別されている人や困っている人と連帯する気もないだろうし、こちらも、そういう人と連帯する意味もない。
「そうですか、それは、お幸せでなによりですぅ」と言うしかない。
「自分はなにも差別されていない」「同性愛者であることで困ってもいない」と言うゲイの人がいる。
私は、それはそれでいいと思う。
あちらも差別されている人や困っている人と連帯する気もないだろうし、こちらも、そういう人と連帯する意味もない。
「そうですか、それは、お幸せでなによりですぅ」と言うしかない。
義父のこと [訃報・追悼]
7月30日(月)
今夕、94歳で亡くなった義父は、戦争末期の徴兵で、陸軍歩兵第21連隊(主力が南方に派遣された留守部隊)に編入され、島根県浜田市にいた。
1945年8月初、部隊の半分が広島市に移動。
そして、8月6日に投下された原子爆弾で大きな被害を受けた。
幸いにも、義父は浜田に残存した中隊に属していて、8月15日、無事に終戦を迎えることができた。
もし、広島に移動した中隊に属していたら、原爆で命を失っていた可能性が高い。
そうなっていたら、結婚して一人娘(家猫さん)が生まれることはなく、私は生涯のパートナーに出会うことはなかった。
人の生死は、けっこう偶然に左右される。
人の出会いは、いくつもの偶然が重なった結果なのだ。
それを「縁(えにし)」と言う。
今夕、94歳で亡くなった義父は、戦争末期の徴兵で、陸軍歩兵第21連隊(主力が南方に派遣された留守部隊)に編入され、島根県浜田市にいた。
1945年8月初、部隊の半分が広島市に移動。
そして、8月6日に投下された原子爆弾で大きな被害を受けた。
幸いにも、義父は浜田に残存した中隊に属していて、8月15日、無事に終戦を迎えることができた。
もし、広島に移動した中隊に属していたら、原爆で命を失っていた可能性が高い。
そうなっていたら、結婚して一人娘(家猫さん)が生まれることはなく、私は生涯のパートナーに出会うことはなかった。
人の生死は、けっこう偶然に左右される。
人の出会いは、いくつもの偶然が重なった結果なのだ。
それを「縁(えにし)」と言う。