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小惑星探査機「はやぶさ2」、「リュウグウ」近傍に到着 [天文・気象・生物]

6月27日(水)

日本の小惑星探査機「はやぶさ2」が、3年半、30億キロの旅路の末に目的地の小惑星「リュウグウ(162173 Ryugu)」近傍に到着。
リュウグウ1.jpg
「リュウグウ」がお結びに見えるのは、私だけじゃないと思う(指の痕、あるし)。
これでも、小惑星としては、まともな形の方。
リュウグウ2.png
それと、軌道図を見て、意外と近いところを回ってるのだなぁ、と思った。
まあ、近いところを回っている小惑星(地球近傍小惑星)を探査目標に選んで、「リュウグウ」と名付けたのが、ほんとうなのだが。

どちらにしろ、龍宮城はなさそうだし、乙姫様もいなそう。

軌道長半径 (a) 1.189 au
(au=天文単位=地球と太陽との平均距離)
近日点距離 (q) 0.963 au
遠日点距離 (Q) 1.415 au
離心率 (e) 0.190   e=0 だと円
公転周期 (P) 1.30 年
軌道傾斜角 (i) 5.88 度
直径 0.9 km

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校閲ゲラのチェック&手直し、やっと終了 [お仕事(執筆)]

6月26日(火)

夜中、仕事。
13日に届いた自著の校閲ゲラのチェック&手直し、2週間かかって、やっと終了。

初校だから完璧を期す必要はないのだけど、性格上、かなり細かいところまで文章に手を入れたので疲れた。

まだ、図版が組み込まれていないので、文章と図版を対照しての手直しは再校で。

ともかく、一歩前進。

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6月26日(火)明治大学文学部「ジェンダー論」第11講「テレビ・メディアとジェンダー(1)―描かれるもの、消されるもの、操作されるイメージ―」 [お仕事(講義・講演)]

6月26日(火) 晴れ  東京  30.1度  湿度73%(15時)

9時、起床。
朝食は洋梨のデニッシュとコーヒー。
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シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒と白のアニマル模様のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、ワインレッドのトートバッグ。

11時15分、家を出る。
IMG_2600.JPG
今日も暑い。
東急東横線から都営地下鉄三田線に入り、神保町駅で下車。
12時25分、明治大学(駿河台)に到着。
IMG_2601.JPG
レジュメは340部×3枚を印刷。
講義開始30分前にレジュメを教室へ運び、パワーポイントを準備。
講師控え室に戻って腹ごしらえ。

玄米おにぎり、少し飽きたので「ドトール」もミラノサンド(B)とアイスコーヒー。
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13時30分、講義開始。

まず、前回、口頭で説明した単位レポートについて、プリントを配って再度説明。
その後、先週日曜日の青森レインボーパレードの画像を見せる。
続いて、第10講「衣服とジェンダー&セクシュアリティ(2)―身体と装いの間―」の残りを説明。

1 「衣服」の構成要素 ―どこまでが装い?どこからが身体?―
 (1)服
 (2)装身具
 (3)身体装飾
 (4)身体変工
2 ファッションとジェンダーの構造
 (1)裸体と着衣のジェンダー&セクシュアリティの構造
----------------(ここから)-----------------
 (2)「見えない強制」の構造―「させられている」のか「しているのか」?―

残り60分で第11講「テレビ・メディアとジェンダー(1)―描かれるもの、消されるもの、操作されるイメージ―」に入る。

1 テレビの中のL/G/B/T -その問題点-
 (1)取り上げ方のアンバランス
 (2)トランスジェンダーの扱いにおけるダブル・スタンダード
2 「おネエ」カテゴリーの問題性
 (1)「おかま」という言葉
 (2)「おネエ」という言葉
3 テレビ・メディアとトランスジェンダーの歴史 
 (1) 1960年代後半~1980年代
 (2)1980年代末
 (3)1990年代前半
 (4)1996年代後半~2000年代前半
----------------(ここまで)-----------------
 (5)2000年代後半
 (6)2010年代

15時10分、終了。
まだ少し残っているが、だいぶ積み残しを解消。

講師控え室に戻り、残りレジュメの整理しながら久しぶりに佐々木先生といろいろおしゃべり。

17時、辞去。

新丸子駅構内の「タリーズ・コーヒー」で休憩。
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「東急ストア」で買い物。
18時30分、帰宅。

夕食は、麻婆茄子を作る。
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食後、1時間ほど仮眠。

コメント票の整理、出欠記入。
お風呂に入って温まる。

就寝、3時半。


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(書評)長島淳子『江戸の異性装者たち――セクシュアルマイノリティの理解のために』 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

6月26日(火)

『図書新聞』3356号(2018年6月23日)に、長島淳子『江戸の異性装者たち――セクシュアルマイノリティの理解のために』の書評が掲載された。
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原稿を送ったのが2月15日、校正ゲラを戻したのが3月16日。
その後、2カ月半以上、まったく音沙汰がなく、「没」かと思ったら、3カ月もたってやっと掲載になった。

書評、少しシビアに書きすぎたかな(反省)。
でも、異性装の当事者とっては「殺されない」社会であることって、とても大事なことなのだ。

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長島淳子著『江戸の異性装者(クロスドレッサー)たちーセクシュアルマイノリティーの理解のためにー』
(勉誠出版、2017年11月15日 四六判 3200円+税)

 天保9年(1838)、数え年25の若さで流刑先の伊豆八丈島で病死した「たけ」という人がいた。火消職人の娘として生まれた「たけ」は、少女の頃から男の形(なり)をして「竹次郎」と名乗り、男として働く男装者だった。ところが、両親に死なれ身元保証人もない「無宿」ということもあり、ささいな罪を重ねて、最終的には「ゆすり」の罪で遠島に処されてしまう。厳しい刑になった背景には、町奉行所が再三「男の姿にて徘徊いたすまじく」申し渡したにもかかわらず、「たけ」が男装をし続けたことがあった。
 本書は日本近世女性史を専門とする著者が「たけ=竹次郎」のような江戸時代の異性装者の姿を史料から丹念に掘り起こし歴史に位置づけた労作である。史料をあげて分析していく研究書の体裁ではあるが、史料には現代語訳が付され、キーワード的な事項にはコラム的な解説が挿入されていて読みやすく、歴史読み物としても十分に楽しめる。
 ところで、同性間性愛・異性装を背教行為として厳しく禁じたユダヤ-キリスト教と異なり、日本の伝統的な宗教(神道・仏教)には同性間性愛や異性装を禁じた宗教規範がない。だから、平安~江戸時代の仏教界は男色文化の温床だったし、異性装(とりわけ女装)をともなう祭礼は今でも各地に残っている。前近代の日本社会における異性装者の数は同時代の欧米キリスト教社会に比べてはるかに多かっただろう。
 にもかかわらず、日本の歴史学界は、そうした非典型な「性」をもつ人々の存在に目を向け歴史に位置づけることをしてこなかった。そうした意味で、近世史家による本格的な異性装史が刊行されたことは画期的であり、性別越境の研究者として、また1人のトランスウーマンとして、たいへんうれしく思う。
 また、本書の副題が「セクシュアルマイノリティの理解のために」であることにも注目したい。実際、本書の記述では、歴史研究であると同時に現代のセクシュアルマイノリティとの対比がつねに念頭に置かれていて、本書の大きな特色になっている。まあ、江戸時代の異性装者に、性的指向や性自認など西欧近代の性科学概念を適用することには違和感がなくもないが。
 女性史を主テーマとする著者がこうして異性装研究に踏み出したきっかけは、大学教育の場における現代のセクシュアルマイノリティの学生たちとの出会いだったそうだ。教育と研究の連関、相互フードバックという意味で理想的だと思うが、多忙な大学教員の誰もができることではなく、研究者・大学教員という同じ立場にある者として頭が下がる思いだ。
 読み進めていて少し気になるのは史料の偏りである。著者は異性装の事例のほとんどを『藤岡屋日記』から採集している。『藤岡屋日記』は江戸外神田の本屋「藤岡屋」の主人須藤由蔵が市中の出来事や噂話を記録した膨大な「日記」で、その採録時期は文化元年(1804)から慶応4年(1868)までの65年間に及ぶ。したがって、著者が抽出した異性装の記録も文政~天保~弘化~嘉永年間(1818~1853)がほとんどで、260余年に及ぶ長い江戸時代のごく一部でしかない。
 松平定信の寛政の改革(1787年)に始まり、とりわけ天保年間(1830~1843)以降の江戸時代後期は、男女の別・家の継承を重視する儒教規範が強化され、それが「お触」の形で庶民層を制約していった時代だった。竹次郎の処罰理由の「人倫を乱し」の「人倫」はまさにそうした儒教規範の表れだ。
 同じ江戸時代でも、それ以前の時代は、儒教規範の庶民への押しつけはもう少し緩かったかもしれない。少女のように美しく装った少年たちがサービスする陰間茶屋が江戸の各所に55軒もあったという宝暦~明和年間(1751~1771)の状況を踏まえると、史料的な制約から仕方がない部分はあるにしろ、著者が異性装者に厳しくなった時期を主に見ているのではないかという危惧を覚える。
 また、挙げられている事例は、史料の性格上、ほとんどが「竹次郎」のように異性装者が何らかの理由でトラブルになったケースであり、トラブルにならず平穏に暮らしていた異性装者もそれなりにいたのではないかという疑念もわく。
 さて、著者は「諸外国と比較して、江戸時代が男色や同性愛に対して寛容で緩やかな時代であった」とする評価に疑問を呈し、異性装禁止の法令がなかったことについても「(江戸時代は)あまりに身分・階層差が明確であり、また性別を強調する社会においては法制化するまでもなかった」とする。たしかに江戸時代は、厳しい階層・身分制社会であり、その表象としての衣服の制約は強く、現代のような服装表現の自由などという概念はまったく存在しなかった。しかし、同時に江戸時代も曲がりなりにも法治国家であり、異性装禁止の法令が一度も出されなかったことは、やはり重要だと思う。
 「諸外国との比較」で言えば、1726年、フランスはパリのある広場で、同性間性愛(肛門性交)の罪状で1人の男が火刑の刑に処せられた。キリスト教社会では同性間性愛は基本的に死刑であり、こうした例は珍しいことではなく、むしろ常態と言っていい。1726年は日本では享保11年、八代将軍吉宗の時代であり、三都(江戸・京・大阪)の芝居町界隈には女装の少年が色を売る陰間茶屋が賑わっていた。江戸時代を通じて異性装や同性間性愛を主な理由に死罪になった人はおそらく1人もいない。
 当事者にとっては、殺されないことはなにより大事なことなのだ。やはり彼我の違いは限りなく大きいと思うのだが、いかがだろうか。

(三橋順子 みつはしじゅんこ 性社会文化史研究者・明治大学非常勤講師)

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