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遊廓はほぼ日本特有の存在 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

2月23日(日・祝)

キリスト教において、売春は悪徳なので、欧米には政府公認の売春の場は存在しなかった(現在はオランダなど一部の国で公認)。
売春宿は存在したが、基本的にすべてモグリ営業。

儒教においても、売春は人倫の道に反するとして否定される。
したがって、徹底的な儒教国家だった朝鮮には遊廓は存在しない。

そういう点で、桃山~江戸初期に、豊臣秀吉・徳川家康によって、それまで女性たちの自立的な売春の場であった「遊女屋」を1カ所に集めて囲い込んで形成された日本の「廓」は、公許の売春の場として、世界史的に見て特異な(稀な)存在である。

しかし、江戸幕府も儒教を基本的な倫理規範にしていたので、遊廓の公許はかなり制限的(全国で4箇所)だった。
儒教規範を尊ぶ権力者(典型的には松平定信)の時代には、抑圧もあった。

ところが、明治新政府は、公認の遊廓を一気に増やし、国家システムに組み込んでいく。
そして、明治後期(1900年前後)に近代的遊廓システム(貸座敷指定・娼妓鑑札制)が完成し、やがて台湾や朝鮮など植民地にも輸出されていく。

明治末~大正期(1900~10年代)キリスト教倫理観に基づく、遊廓(売春)否定の「廃娼運動」が活発化するが、政府は意に介さないし、世論の大きな支持も得られなかった。

近代遊廓システムの廃絶は、敗戦(1945年)後、日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令部)の指示によって、ようやくなされる。

それでも警察は、集娼制の維持と性病のコントロールを理由に「赤線」システムを作り上げる。

こういう「買売春史」の基本的な流れ、なぜか、ほとんど知られていないし、ちゃんと語れる研究者も少ない(ほとんどいない)。

私、今、15分ほどで書いた(笑)


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