【論文】昭和戦前期、大阪における女装文化の展開 ―「釜ヶ崎」の男娼を中心に― [性社会史研究(性別越境・同性愛)]
1月29日(水)
この論文は、2010年4月に関西性慾研究会(京都)で行った報告「武田麟太郎『釜ケ崎』を読む-近代大阪の男色文化解明に向けて-」、及び2010年9月に国際日本文化研究センター「性欲の社会史」共同研究会で行った報告「昭和期、大阪における女装文化の展開」に基づき、2024年10月に論文化した者でです。
参照・引用する場合は、著者名とURLの明記をお願いします。
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昭和戦前期、大阪における女装文化の展開
―「釜ヶ崎」の男娼を中心に―
三橋 順子
はじめに
江戸時代中期、大坂における女装をともなう男色文化の中心は、江戸の堺町、葺屋町、木挽町や京の宮川町と同様に、芝居小屋が連なる坂町(南地五花街のひとつ。道頓堀の南、法善寺の東)界隈の陰間茶屋だった(註1)。1768年(明和5)には49人の陰間(女装の少年)がいたことが記録されている(『男色細見・三の朝』)。規模こそ江戸に劣るものの、江戸の歌舞伎女形や色子は「下り子」(上方出身者)が圧倒的だったように、質的には高いレベルにあった。
そうした上方の女装男色文化も、明治維新以後、近代化と西欧キリスト教的な性規範の流入の中で抑圧され、ひたすらアンダーグラウンド化していった。明治・大正期の様相はきわめて資料に乏しく、残念ながらほとんど系統的にたどることができない。大阪という商業都市の発展に伴い、都市周縁、具体的には南へ南へと、塵芥が掃きたてられるように、追いやられていったのではないだろうか。その点、遊廓が新町・堀江から難波新地へ、そして飛田新地へと南に移動していった流れと、軌を一にする。
上方の女装男色文化が、再び社会の表面に浮かんできて、断片的ながらも一般人の視野に入ってくるようになるのは、ようやく昭和に入った頃、1920年代からである。
20世紀末、1980~90年代(昭和末期~平成初期)の大阪には、数多くのニューハーフ(商業的なトランスジェンダー)・パブや女装スナック、アマチュア(趣味)の女装クラブが存在し、東京とはまた一味違った女装文化が繫栄した。しかし、その系譜を歴史的にたどる研究はほとんどなされていない(註2)。
そこで本稿では、限られた資料からではあるが、まず昭和戦前期の大阪における女装をともなう男色文化の系譜を、大坂南郊「釜ヶ崎」を主な舞台に可能な限りたどってみたい。
1 「釜ヶ崎」というエリア
釜ヶ崎は、大坂の南の郊外、旧・摂津国西成郡今宮村字釜ヶ崎で、伝統的な街道筋(住吉街道=紀州街道)であり、火葬場や墓地(鳶田墓)があり、近隣には、飛田遊廓や大規模な被差別部落(渡辺村)が在った(註3)。大阪の盛り場ミナミの黒門町市場からは、日本橋筋を南下し、新世界を経て、釜ヶ崎に至る。
1898年(明治31)に木賃宿営業許可地になり、1904年頃から木賃宿を中核とする「貧民窟」(スラム)が形成されていく。そこには、大阪という都市の拡大により、スラムとその住人を都市のより周縁に追い立てるという都市政策が深く関係している。
地理的には、1885年(明治18)、住吉(紀州)街道の西側に、今宮村をほぼ南北に分断する形で設置された阪堺鉄道(難波~大和川間、現:南海電鉄)のラインを西限とし、1889年(明治22)に今宮村北部を東西に横断する形で建設された大阪鉄道線(後の関西鉄道、現:JR関西本線)の築堤を北限とし、1900年(明治33)に営業を開始する南海電鉄天王寺支線(天下茶屋~天王寺間、1993年廃線)を東・南限とする三角形のエリアが釜ヶ崎として認識されていた。旧町名では、西入船町、東入船町、甲岸(こうぎし)町、海道町、東萩町(現:西成区萩之茶屋)、東田町(現:西成区太子)のエリアである。
(図1)ミナミ~釜ヶ崎の概念図(昭和戦前期)
(加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』註3より)

(図2)釜ヶ崎の町名
(加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』註3より)
「貧民窟」の構造は、木賃宿を核として、低賃金工場労働者、日雇い労働者、廃品回収業者(古物商・屑拾い)、遊芸人、失業者、無職困窮者(病者・身体障害者)、および、それらの家族が集積され、また彼らを客とする最下層の娼婦が集まり、さらにそこに男娼が混じるという形だった。
(図3)大正末期の釜ヶ崎の木賃宿
(加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』註3より)

(図4)1910年頃の釜ヶ崎の木賃宿
(加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』註3より)
2 平井蒼太「大阪賤娼誌」
管見の限り、釜ヶ崎の男娼に言及した最初の文献は、1930年(昭和5)、『犯罪科学』に掲載された平井蒼太「大阪賤娼誌」である。平井は「釜ケ崎の賤娼」の章で、この地における男娼の存在を次のように記録している。
其外流石に此処は、附近一帯を管轄区域とする今宮警察署によつて、去る五月風俗取締と性的犯罪予防の目的を以て、管内居住の被男色常習者と見做されてゐる、拾九才より四拾六才に至る迄の変態性格者八拾余名のリストが作成された土地である丈けに、男色専門の男娼を街頭に散見することは、寧ろ怪しむに足りないことであらうが、尠くも大阪全賤娼街の中での変態的存在として注意するに値するものである。彼等男娼の姿は、夜十時過ぎから午前二時の深夜に掛けて、住吉街道のアスフアルト舗道を漫歩するならば、露路の入口の電柱に細つそりとした身軆を靠(もた)らせ、紺絣の着物の脇の下から両手を胸に差入れた青年の口から「ちよつとちよつとお兄さん」とこの上もなく気味悪い作り声が投げ掛けられる実際に直面することによつて見らるるであらう。
(『犯罪科学』1巻7号、1930年12月)
平井は、「賤娼」(最下層の娼婦)がいるエリアを「旧住吉街道を差し挟んで西成区八田町、東田町、東西入舟町一帯」とし、その付近に深夜、男娼が出没することを記している。
男娼がいつ頃から釜ヶ崎で活動し始めたのか、平井の記述からは不明だが、すでに1930年5月の時点で、今宮警察署によって19才~46才の「被男色常習者」80余名のリストが作成されていたほどで、1920年代に遡ることは確実だろう。「被男色常習者」とは男色において「受け身(受動)」を専らにする人の意味だろう。ここで注目しておきたいのは、、その男娼たちが「紺絣の着物」の非女装の男姿で、女姿(女装)の男娼は、少なくとも目につく限りは、いなかったということである。
ところで、男姿の男娼と女姿の男娼の営業を比較した場合、どちらが有利だろうか? 男姿の男娼の客は男性に性的指向がある男性にほぼ限定される。それはおそらく全男性の5%以下だろう。かなり特異な営業形態と言える。それに対して、女姿、女性に擬態した男娼は、女性に性的指向がある男性すべてが誘客の対象になる。男姿の男娼よりはるかに広い。もちろん、女性の街娼だと思って近づいてきても、男娼とわかった途端に忌避する男性は多い。しかし、「それでもいい」と思う男性もいるし、最後まで男娼と気づかない、女性と信じて性行為を終える客もいる。つまり、女姿の男娼の方が客層が広く、営業的にかなり有利だということだ(註4)。ただし、女性擬態のテクニックが必要になるが。女装男娼の営業的優位性は、今後の展開のポイントのひとつになる。
3 武田麟太郎の小説「釜ケ崎」
1933年(昭和8)、武田麟太郎(1904~1946)の実録的小説「釜ヶ崎」が発表された(註5)。まず、その粗筋を紹介しておこう。
1932年(昭和7)の冬の夜(12月14日)、3日前、苦労して育ててくれた母親を亡くした東京在住の小説家が母の追憶にひかれて、生れ育った釜ヶ崎の街を訪れる。12歳まで母と過ごした家の前に佇んで思い出に浸っていると、中から出てきた女に家の中に引き込まれてしまう。
生家は、「淫売婦」相手の貸間に変じていた。小説家は子供の頃、落書きをした尾上松之助の似顔絵が残る階段を上り、二階の六畳間を二つに仕切った部屋で、求められるままに女に50銭を渡すが、「それには及ばぬ」と「遊び」(性的交渉)を拒絶する。
女と言葉をやり取りしながら観察するうちに、「あんたは、女とちがふな」と、小説家は女と思った人物が女装した男性であることを見抜く。女装の男娼は、小説家が自分の話に興味を持ち出したことを知って、自宅(第二愛知屋)に誘う。
女装男娼の家に向かう途中、「浮浪者」が行き倒れ収容される現場に出会う。「女装」は小説家を「焼酎屋」に誘う。そこに居合わせたアルコール中毒っぽい「外套の男」に請われて「粥屋」に行き、2人に芋粥をおごらされる。結局、「外套の男」も一緒に、「女装」の住む「第二愛知屋」の一室に泊ることになる。3畳足らずの「女装」の部屋には、母親とすでに女装して男娼稼ぎを始めている弟がいた。
翌朝、「外套の男」が姿を消し、泊り賃50銭を財布から抜かれた小説家は、「女装」の部屋を後にして、駅に向かう。途中、露店の「煮込屋」や古道具屋を覗いたり、「肩掛の女」から市電の切符を買 ったり、皮膚病の「乞食」の少年と言葉を交わしたりする。
小説家はその夜、難波で、新聞記者某氏に出逢い、釜ヶ崎の話をする。某氏もそれに応じて釜ヶ崎の女の行路病者と「ルンペン」の夫の話題を提供し、「小説にならんか」と言う。小説家は、それには即答せず、家へ戻った後、それと「昨夜来の経験とを織りまぜ、小説に作りあげて見よう」と決心し、資料(「大阪市不良住宅地区沿革」)を読み始める。
大阪生まれで、当時は東京在住の小説家武田麟太郎は、1932年11月、釜ヶ崎の簡易宿泊所(木賃宿)を管轄する大阪市役所社会部福利課勤務の知人・古藤敏夫とその同僚杉丙三の案内で釜ヶ崎を訪れる。その後も一人でしばしば訪れ「おかま」がいる二階に上がって取材した。その「おかま」が「必ず一遍は子供を産んでみたい」と言ったのを気に入り、「きっとこの科白を使て小説を書くんや」と興奮した。そして、翌1933年、女装男娼との出会いを中心にスラム「釜ヶ崎」の社会を描いた小説「釜ヶ崎」を『中央公論』に発表する。
小説家の主人公と出会い、釜ヶ崎探訪の案内役になるのは、「日本髪の頭」で、女の着物を着た「艶っぽい声」の「今まで一ぺんも(男だと)見破られたこと」はないという完全な女姿の20歳の女装男娼である。
また「彼女」は姿かたちが女であるだけでなく、「その日常生活の末々端々にいたるまで女子として行動し」ている、女として生きている人で、周囲の人たちからも女として認識されている。商売(セックスワーク)も「ええ、ちゃんと、そいで商売してますねん、をなごとしてな」と言っているように、女として営業している。
ちなみに、「彼女」の料金は50銭で、木賃宿の「彼女」の部屋に泊る場合は、泊り賃として別に50銭をとっている。当時の釜ヶ崎の「賤娼」は「五拾銭淫売」という俗称があったように、標準価格は50銭だった。「彼女」も同様だったことがわかる(女として営業しているので、そうなる)。
この時期の物価は、かけそば10銭、しる粉15銭、天丼40銭、映画館入場料50銭、日本酒(並1升)1円、日雇い労働者日当1円30銭、米(10kg)1円90銭である。現在との比較では1円=約3000~4000倍程度だろうか、とすると、50銭は1500~2000円見当ということになる。
さらに、将来的にも「完全な『女』」として生きる決心」をしていて、「かうなつたからには、意地でも、どうかして子どもを産んで見せます!」と断言するように、心理的にもいたって女性的である。
こうした「彼女」の人物造形は、取材の経緯や、市井の人々の生活と庶民の哀感をリアルに描くことを重視した武田の作風からして、創作ではなく、かなり実在の人物に近いと思われる。
また「彼女」には14歳の弟がいるが、その弟も「昨年あたりから(13歳から)女になって、客をとることを覚え」、「やつぱり歳のすくないのは、骨がやはらかいし、肉もしまつてまへんよつてに、もうわてらと較べもんにならん位、よう売れます」と「姉」がうらやむほど、かなりの売れっ子になっている。
その「姉」自身も「まだ子供の時は、これでも綺麗や云うて、お客がたんとつきましてな――なんにも知らんとな」と述懐しているように、かなり低年齢から女装男娼の稼ぎをしていた。
貧しい階層に生まれた男の子が12~13歳頃から女装して「少女」としてセックスワークを行う事例は、現代でも東南アジア(フィリピンやタイ)など発展途上国で見られる。その年齢の少年は収入の道に乏しく、少女ならセックスワークでそれなりの収入が得られるからである。もちろん少年なら誰でもできることではなく、適性や技術(化粧)が必要になるが、小説「釜ヶ崎」の事例は、そうした形態が1930年代の日本にも存在したことを教えてくれる。
小説「釜ヶ崎」は、釜ヶ崎で活動する女装男娼の生態をリアルに描き、プロレタリア文学の高揚期(弾圧開始直前)という時代性もあり、社会的インパクトが大きく、釜ヶ崎の女装男娼の存在を広く世に知らしめた。
4 上田鹿蔵(笑子)の事件(1926年=大正15年)
『東京日日新聞』1926年(大正15)5月28日朝刊に、上野公園で2人の女装青年が逮捕されたという記事がある。東京での事件だが、女装青年の1人上田鹿蔵は関西からの出稼ぎで、その来歴は釜ヶ崎と関連する。以下、いささか長くなるが引用してみよう。
上野公園に現われた美人の辻君 捕えてみえればこはいかに 女装の男性とは
上野公園からうら若い美人がふたりと男ひとりを、本郷富士署の松見刑事が引致して取り調べると、ふたりの女は、意外にも女装せる青年で、奈良県北葛飾郡新庶(庄ヵ)村、上田鹿蔵(一六)、埼玉県北足立郡大和田村野火止、渡辺芳雄(二十五)、ならびに神戸市兵庫和田崎町三九、井上林八(四〇)という。この三名はいずれも、目下、下谷区入谷町一六七、若松太郎方の一室を間借りしているが、芳雄と鹿蔵は希代の変態性欲者で、林八が見張り役となり少年を誘拐したり、紳士、学生などを釣り込んでは変態の性的満足を与えて金銭をもらっていた。 なお、鹿蔵は、昨年六月、大阪の某富豪のむすこを欺き金をつかわせ、その、むすこを家から勘当同然の身の上にさせたと自白しているが、芳雄は、一昨年まで本所区高橋辺で、某会社員橋本右衛門という者と夫婦気どりで同棲していたともいう。 林八は、元鍛冶屋であったが、数年前に法界屋となってあちこち流し歩いているうちに、一昨年十一月ごろ浅草公園で芳雄と、昨年二月、鹿蔵と大阪中之島公園で知り合いとなり、一もうけしようと、ふたりの変態性を利用したものであるが、芳雄、鹿蔵のふたりはいずれも十三、四歳ごろから既に変態性欲者になり、服装や言語まで女そのままに変わってしまった。 芳雄は、郷里に父母兄弟もあるが、十五歳の時上京し、放浪生活を続けていたため、今は郷里とも文通していない。 鹿蔵には、母たつ(五二)と四人の兄弟があるが、貧困のため、昨年、大阪に出て来て以来、月々百円から二百円ぐらいずつを母の手もとに送っていたが、都合のいい時は月々二百円ぐらいの収入があるといっている。
ここに見える16歳の女装少年・上田鹿蔵こそ、1960~70年代に「関西男娼の女王」と呼ばれ、女装男娼の大ボス(元締め)として有名になる上田笑子(1910~?)の若き日の姿である。鹿蔵は奈良県北葛飾郡新庄村(現:葛城市)の出身で、1925年2月に15歳で大阪に出てくると、中之島公園で法界屋の男、井上林八と知り合い、ある富豪の息子を誑し込んで金を使わせるなど、15~16歳ながら女装男娼として一人前の稼ぎをしていた。鹿蔵が母親に送っていた月100~200円を、当時の公務員(高等官)の月給が75円であったことと比較すると、その荒稼ぎぶりがわかる。おそらく大阪での荒稼ぎのほとぼりをさますため、井上とともに東京に出稼ぎに来て、その縁で東京の女装男娼・渡辺芳雄と知り合ったのだろう。
ところで、この上田鹿蔵こと笑子は、後年、女装男娼になった経緯を次のように語っている。
あたしがどこかでチョロまかしたお金をふところにして ―いまのお金にして二千円ほどになるかいナ― 貨物列車に乗って家出したのは、数えで十二歳の時やったなァ……。着いたところが大阪。西も東もわかりまへん。雪の降る心斎橋の欄干にもたれて一人泣いていたんですわ。その時、声をかけてくれたのが、新世界一座の芸人さんでした。一年ほど使うてもろたけど、夜になると、一座のオッサンがやってきて、あたしの身体をネブるんや。毎晩のように続いたわ。そいですっかりネブられるのが好きになったんやネ。十三の時、ひとりで釜ヶ崎のヨシノ屋いう男娼のたまり場に行きましてん。その頃のオカマはんはみな男装で、女装したんは、あたしが初めてなんよ。」
(「衝撃の告白44 大阪・釜ヶ崎、上田笑子の陽気なゲイ人生 私の“オカマ道場”の卒業生は四千人よ」『週刊ポスト』1970年12月25日号)
上田鹿蔵こと笑子の生年が1910年(明治43)であることは、ある記者が戸籍を調査して確認しているので、ほぼ確実である。12歳で家出して大阪に出てきたのは(数え年として)1921年(大正10)、13歳で釜ヶ崎の男娼のたまり場「ヨシノ屋」に行ったのは1922年(大正11)ということになる。
1922年頃、釜ヶ崎に「ヨシノ屋」(おそらく木賃宿)という男娼のたまり場」があったことがわかる。また「その頃のオカマはんはみな男装で、女装したんは、あたしが初めてなんよ。」という笑子の言を信じるならば、釜ヶ崎に女装男娼が出現するのは1922年頃、大正末期で、13歳の女装男娼が実在していたことになる。
ここで思い浮かぶのは、1932年(昭和7)に武田麟太郎と出会い、釜ヶ崎を案内し、小説「釜ヶ崎」の女装男娼のモデルになったのは上田笑子なのではないか?ということだ。笑子は1932年には23歳で、武田が会った女装男娼は20歳で年齢が合わないが、数歳、あるいは5歳くらいサバを読むのは、女装の世界では珍しいことではない。笑子が釜ヶ崎の女装男娼第1号であり知られた存在であることを思うと、あながち妄想とも言えないだろう。
5 女装男娼田中茂子の事件(1937年=昭和12年)
もう1つ、女装男娼について報じた新聞記事を掲げておこう。1937年(昭和12)4月21日夜、東京・銀座四丁目交差点付近で、田中茂子という人物が密売淫(無届売春)の容疑で逮捕された。
真逆と思うこの姿 大抵騙される 盛り場で袖ひく女装男 最近、銀座、新宿、上野などの往来で、通行中の男に秋波を送り、なにかと話しかけては、待合、旅館などへ誘って風紀を紊す振りそで姿の麗人があるのを、警視捜査第一課不良少年係で聞き込み、二十一日夜、杉沢、水上両刑事が、銀座四丁目交差点付近で網を張っていると、それとは知らず、水上刑事のそでを引いた。パーマネントに錦紗の羽織、振りそで姿の女を取り押えて調べると、右は、奈良県高市郡畝傍町字新町松造の二女田中茂子(二四)と称し、五人兄弟の末子で、十四歳の時家出し、神戸、大阪などで女給をし、本年二月上京、下谷区入谷町二三五碓井作太郎方に同居していると、密淫売数件をスラスラ自供したので、同夜はそのまま留置したところが、二十二日、渡辺警部が調べようとすると、なんとなく女にしてはおかしな点があるので、追及すると、意外にも、女装青年であることがわかり、係官を驚かした。 この男、実は松造の四男茂(二四)で、十四歳の時家出、大阪で活動写真を見物中、女装の青年と知り合い、大阪市西成区今宮町でその青年と同居したのが始まりで、その後、女装してはカフェー、バーなどで女給をしていたが、今まで一度も看破されたことはなく、ただ徴兵検査のさい男に返っただけで、検査後は再び断髪パーマネントの麗人になりすまし、大阪、神戸でカフェー、バーなどの女給をしていたもの。 本年二月上京。田中ゆみ子という名で銀座、上野、新宿の盛り場を流して男を物色し、待合、旅館などにくわえ込み、十円、二十円とまき上げていた。 相手の男の中には、関西某市市議八木某、古川緑波一座の吉川孝ほか数名あり、中には「ゆみ子さん、あなたが結婚してくれなければ、わたしは死にます」と、熱くなっている男もあったほどで、その声なども女そっくりで、これら男の中でただひとりも見破った者はなかったそうだ。銭湯に行く時は、いつも、だれも行かない朝早く、男物の着物を着て男湯に行き、帰ってから化粧していた。 警視庁では、同人の長く延ばした髪を刈って坊主頭にしたうえで釈放することになるらしいが、ご本人「男になるのなんかいやだワ。こんな商売が悪いのなら、舞台にでもでてみたいワ」とダダをこねている」
(鎌田意好「異装心理と異装の実態」『風俗奇譚』1965年7月号)
この記事、残念ながら、掲載紙、掲載日が不明だが、1930年代の東京でときどきあった、密売淫の容疑で逮捕した女性が、実は男娼であり、女性を行為主体としている密売淫禁止の法規(「警察犯処罰令」第1条2項)が適用できずに釈放となる典型的な事例である(註5)。
この田中茂こと茂子もしくはゆみ子は、奈良県高市郡畝傍町の出身で、14歳の時に家出し、大阪で活動写真を見物中に、女装の青年と知り合い、大阪市西成区今宮町でその青年と同居したのが女装人生の始りだという。1937年に24歳ということは、1927年(昭和2)に誘われたことになる。当時、釜ヶ崎の南部の西成区今宮町に女装の青年が居住していて、素質のありそうな家出少年を勧誘(リクルート)していたことがわかる。
ちなみに上田笑子とは奈良県出身であることが共通する。笑子が「あら、あたしも奈良出身なんよ」と、茂少年を誘ったのかもしれない。
実は、この田中茂子、4年前の1933年(昭和8)3月、19歳の時にも、まったく同じように銀座で密売淫の容疑で逮捕されている(『東京日日新聞』1933年3月19日)。大阪・釜ヶ崎を本拠とする女装男娼がしばしば東京に出稼ぎに来ていたことがうかがえる。
ところで、3・4節で紹介した記事は、1960~1980年代に活動した女装秘密結社「富貴クラブ」の創立者・会長であり、戦前・戦後を通じて女装者愛好一筋に生きた典型的な「女装者愛好男性」(自分は女装しないが女装者を愛好する男性)、西塔哲(筆名:鎌田意好、かまだいすき)がスクラップしていたものである(註7)。西塔は釜ヶ崎を訪れ、田中茂子に実際に会っていて、その思い出を記している。なお、時期は、茂子が最初に逮捕されて評判になった1933年の少し後、おそらく1935年(昭和10)前後と思われる。
それは私が就職匆々(そうそう)の事で、当時、神戸の方へときどき出張させられた。その余暇を利用して、有名な釜ヶ崎に足を入れる様になった。最初は東京と全然異なった雰囲気に戸惑いしたが、結局六感をはたらかせて地廻りの八さんと近付きになり、彼を通じて数人の釜ヶ崎の代表美人達と親しくする様になった。 前記の田中茂即ち茂子もその一人だった。女装が法律で禁止されていた当時でも、釜ヶ崎スラムを中心に心斎橋道頓堀周辺は笑子姐御を始めとして数十名のオカマが夜の闇を我がもの顔に活躍していた。その頃は、今日の「男娼」と云う言葉は未だ無く、「ガタ」あるいひは「オカマ」の名称で呼ばれており、面と向かっては、「お姐ちやん」と云う呼名が一番適切で、本人達もそれを喜んでいたし、「あんたお姐ちやんじゃないか」と呼ぶ事に依って、自分が男色党だと云う風に相手方に認識させていた。 此の茂子は、彼等の仲間でも年少者の方で東京で新聞種になつて以来、なかなかの売れっ子になつていて、相当な紳士や文士連の客があり、青二才の私輩が馴染になる迄には相当大阪通いをしたものだつた。髪はヅカガールの男役の様な刈り上げ方で、色白の小柄な美少年で、流石に若さが物を云つてか、抱き締めると柔軟なピチピチした肉体は、まるで若い娘の様な弾力さえある。夜になると一時間もかかつて化粧し、着付けを済ませて、束髪の鬘をすつぽりと被ると、もうすつかり若い娘になり切つて仕舞う。 本人の話では、奈良の農家の二男坊に生れたが、子供の時から女の様で、友達と遊ぶのも女の子ばかり、小学校を卒業して百姓を手伝っていたが、女になりたくて堪らず、村の盆踊りなどで女装すると、若い衆連は女と間違えて言い寄つてくる始末。とうとう家をとび出して旅役者の群に入り、女形専門にやつていたが、旅芝居ではロクな収入にもならないのと、思う様な同性も得られずに行く先々で言い寄ってくるのはみな娘や女房連なので、見切りをつけ、フリーな立場で男性の愛を得、且つ収入も好い男娼業に転向したのだそうである。ひげの生えていないすべすべした顔立ちと云い、嫋々とした肢体と云い、全く女になり切つている。 此のグループの大姐御の笑子(二十五歳)などは、何時も錦紗づくめの黒紋付、冬場は狐の襟巻などして堂々たる奥様然としたスタイルで、心斎橋から道頓堀の附近を稼ぎ場とし、相当な紳士風の客でなければ相手にしないと云つた大物である。住いなども他の連中と違つて、一戸を構え、女中迄使つている豪勢さで、家に戻れば女中に奧様と呼ばせている程総べて女の生活である。
(西塔哲「女装まにやの手記」『風俗草紙』2巻4号、1954年4月)

(図5)田中茂子
長い引用になったが、この西塔の回想は、昭和戦前期の釜ヶ崎の女装男娼と接した男性の記録として唯一無二のものであり、とても貴重である。
まず、1935年(昭和10)前後、女装男娼がいる場所として、釜ヶ崎がすでに「有名」だったこと。これは武田の小説「釜ヶ崎」の効果だろう。次に、釜ヶ崎には笑子、茂子をはじめ複数の女装男娼がいたこと。これは笑子たちによるリクルート活動に加えて、小説「釜ヶ崎」の効果で女として生きたい男たちが自発的に集まってきたと思われる。そうして集まった女装男娼が、上田笑子を中心にグループ化されていたことは重要である。
茂子については、東京での逮捕が「箔付け」になって売れっ子になったこと,釈放時に警察で髪を切られたためか、鬘を使っていたことなどがわかる。
笑子については、すでに「大姐御」になっていて、本拠地の釜ヶ崎でなく、より上客が得られる大阪中心部の盛り場、心斎橋~道頓堀に進出しているのが興味深い。同じ時期の東京で、浅草が本拠の女装男娼が、関東大震災の後、盛り場として台頭してきた銀座に進出していったのと同じ現象である。
一方、こうした状況は、女装男娼の生業を支えるだけの需要があったことを思わせる。内務省の官吏である西塔が公務出張にかこつけて、東京から釜ヶ崎にせっせと通ったように、全国各地から女装者愛好男性が釜ヶ崎を訪れたのではないだろうか。
6 2つの女装男娼の集合写真
戦前期の女装男娼の集合写真が2点残っている。一つは、『週刊文春』1959年6月15日号の「日本花卉研究会-世にも不思議な社交クラブ-」という記事に掲載されている「大正時代の大阪の男娼たち」と題された写真で。8人の人物が室内で椅子に腰かけ横並びに写っている。

(図6)大阪の女装男娼の集合写真
皆それぞれに着飾った姿で、背景などから、レストランのような場所で記念撮影的に撮られたものと思われる。写真の下には各人の男性名と女性名、そして年齢が記されていて、この人たちが本物の女性でないことがわかる。写真が小さく不鮮明なのが残念だが、皆、なかなかの女っぷりで、女装レベルの高さがうかがえる。当時は、まだアマチュア(趣味)の女装者は顕在化していないので、「彼女」たちは、プロフェッショナルな女装者、つまり女装男娼であると推定される。
問題は撮影時期で、元の記事は「大正時代」としているが、昭和の着物史を研究している私の目からすると、直感的にもっと新しい昭和戦前期の写真ではないかと思った。というのは、左端の「繁子」が着ている幾何学模様の着物(銘仙?)、左から3人目の「百合子」が着ている大柄の模様銘仙?は大正期では早すぎ、こうしたモダンな柄は、1930年代(昭和5~15)の流行と思われるからだ。
次の注目点は、右端に写っている「藤井一男 笑子 二十五年」である。この「笑子」は、3・4節に登場した釜ヶ崎の女装男娼、上田笑子(本名:上田鹿蔵)ではないだろうか。本名はまったく違うのだが、「笑子」の「笑」は男性名にはまず使われない字で、茂→茂子のような安易な女性名のつけ方ではなく、かなり凝っていて、同名の女装男娼がいるとは思えない。「笑子」=上田笑子とし、かつ25歳という記述が正しいとすれば、この写真は1934年(昭和9)の撮影ということになる。
次に左端に写っている「田中繁雄 繁子 十九年」に注目しよう。これは4節で紹介したし、田中茂子(本名:田中茂)ではないだろうか。「繁」と「茂」で字は異なるが読みは「しげ」で同じだからだ。西塔哲の思い出話から、茂子が笑子を姐御とする釜ヶ崎の女装男娼のグループに属していたことが分かるので、笑子と同席して写真に写っていてもおかしくない。ただし、茂子が19歳だったのは1933年なので、撮影時期を1934年とすると、1歳の誤差がある(19歳を2年やっている?)。
これらの推定から、この写真は上田笑子を姐御とする釜ヶ崎の女装男娼のグループの集合写真である可能性が出てきた。さらに、それを証明するのが左から3人目の「三浦三郎 百合子 十九年」である。
先に引用した西塔哲の釜ヶ崎の女装男娼の思い出の末尾に「此の二人(茂子と笑子)に併んで、も一人百合子と云うのもいた。前身は食堂ボーイとか謂われていたが、器量の点では、あるいは三人の中で一番美人かと思われた」と百合子が出てくる。
笑子、繁(茂)子、百合子の一致により、この写真が上田笑子をリーダーとする釜ヶ崎の女装男娼のグループの集合写真であることがほぼ確定的になった。
2枚目は、井上泰宏『性の誘惑と犯罪』(あまとりあ社 1951年)の口絵に「女化男子」というキャプションで掲載されている屋外で10人の「女化男子」が5人ずつ前後2列に写っている集合写真である。

(図7)「女化男子」の集合写真
「女化男子」とは、20世紀前半に流行した変態性欲学の概念で、男性同性愛の傾向が強まった結果、身体や容姿が女性化した男性のことである。その時代の日本では、「女化男子」の職業としては、わずかに芝居の女形、女装芸者があるものの、多くはセックスワークしかなかった。したがって、この人たちは女装男娼である可能性が高い。
この写真、撮影時期・場所が記されていないが、先と同様に着物史的に見てみよう。屋外での撮影ということで、10人中7人が大きなショール(肩掛け)を羽織っている。この手のショールが大流行するのは1930年代で、図5でも室内にもかかわらず右から4人目の「お千代」が羽織っている。また前列左から3人目が着ている大きな柄の模様銘仙?も、この時期らしい。これらのことから、図6の撮影時期 は、図5とほぼ同時期の1930年代と推測できる。
撮影場所については、ほとんど手掛かりがない。ただ、断定的には言えないが、図5とは同じ人物はいないように思う。当時の大阪に2つの女装男娼のグループがあったとは思えず、ということは大阪以外、東京の可能性があるように思う。当時の東京で、女装男娼が集まっていたのは浅草だが、東京・浅草の撮影と推定するまでの積極的な根拠はない。
とは言え、昭和戦前期、1930年代に、大阪、あるいは東京で、これらの集合写真が示すように8~10人の女装男娼が集まり写真を撮るような横のつながりがあったこと、グループ化が進行していたことは、ほぼ確実に言えると思う
グループ化によって何がなされたのか、残念ながら資料的にはよくわからない。後代(昭和戦後期)の状況から推察するに、誘客エリアの場所割り、最低料金の設定、グループ外の男娼の排除、警察の取り締りへの共同対処などが推測できる。
7 戦災による「釜ヶ崎」の壊滅
1945年(昭和20)3月13~14日の大阪大空襲で、スラムとしての「釜ヶ崎」は全焼する。
(図8)1948年撮影の空中写真
1948年にアメリカ軍が撮影した空中写真を見ると、阪堺鉄道を西限とし、大阪鉄道線を北限とし、斜めに走る南海電鉄天王寺支線を東・南限とする三角形の釜ヶ崎エリアのほとんどが焼け跡状態であることが見て取れる。一方、南海支線の東南のエリアには長屋状の建物が密集していて、空襲の被害を免れたことがわかる。
人が若し阿倍野名物と問うならば、私は即座に、今は焼けてなくなったが、スラム街釜崎の五拾銭淫売と、ショウトウ、ヒデンと唄われた飛田の姐さん、それに女装変態男「オカマ」の三つを挙げるであろう。
(南里 弘「男娼を衝く ―南大阪のおかま案内―」『奇譚クラブ』3号、1948年)
釜ヶ崎に形成されていた女装男娼の世界は、戦災によっていったん壊滅した。男娼立ちは、戦災を免れた東の「旭町」に移動して、新しい時代(昭和戦後期)を迎えることになる。
おわりに
断片的な資料から、昭和戦前期における釜ヶ崎の女装男娼の姿をたどってきた。釜ヶ崎における女装男娼の出現は、(本人=上田笑子の言を信じるならば)1922年(大正11)である。大きな画期となったのは1933年(昭和8)発表の武田麟太郎の小説「釜ヶ崎」であり、これによって「釜ヶ崎の男娼」の知名度が飛躍的に高まり、女として生きたい男娼志望者や、それを好む男性客が釜ヶ崎に集まり活況を呈するようになる。そして「草分け」である上田笑子を中心に女装男娼たちがグループ化していく。その全盛期は、集合写真が撮られた1934年(昭和9)から日中戦争が始まる1937年(昭和12)頃と推測される。
最後に、明治~大正期にアンダーグラウンド化した女装のセックスワーカーが、なぜ昭和期に入る頃から再び顕在化したのか、その理由を考察しておこう。
基本的には、ジェンダーを女性に転換した男性に対する根強い性的欲求、それを性的指向(sexual orientation)というべきか、性的嗜好(sexual preference)というべきかはともかく、需要があったということだ。それは、日本の性愛文化の伝統と深く関わる通時的なもので、文明開化によって流入したキリスト教文化に由来する西欧近代的な性規範でも潰せなかったということだ。
次に関連を考えるべきは、この時期の大都市における「盛り場」の形成だろう。鉄道の駅を中核に、デパートなどの商業施設や、劇場・映画館などの興行施設が集中する近代的な「盛り場」に大勢の人が集まるようになる。大阪における新世界、難波(ミナミ)、東京における浅草、銀座などである。そこが女性の街娼(密売淫の摘発対象)の誘客エリアとなり、そこに女性に擬態した女装男娼が混じるという構造が推測される。そして、誘客エリアの「盛り場」から遠くないスラムが「彼女」たちの本拠(居住地)となる。大阪における新世界、難波と釜ヶ崎、東京における浅草と山谷の地理的関係がそれである。女装男娼の再顕在化は、都市文化的な現象として理解することが可能だろう。
昭和戦前期において、女として生きたい男の生きる術は、限られた芝居の女形や女装芸者(もどき)を除けば、セックスワークしかなかった(註8)。女として生きたい男たちが、性的少数者にとってきわめて厳しい時代環境、社会状況の中で、男娼という生業を通じてグループ化し、釜ヶ崎という場に生活の拠点を築いたことは、もっと評価されていいと思う。
ところで、現代日本のLGBT人権運動において、セックスワーカーに向けられる視線はけっして温かいとは言えず、忌避的ですらある。しかし、トランスジェンダー、とりわけ男性から女性へのトランスジェンダーにとって、セックスワークは、過去だけでなく現代においても重要な生業(生きる術)の一つである。欧米でもアジアでも、多くの元、あるいは現役のセックスワーカーが人権運動の担い手として活躍しているのと、かなり大きな差がある。
私は自らの経験から、セックスワークについて論じる場合、可能な限りセックスワーカーの存在と主張に寄り添う姿勢をとることにしている(註9)。この論考は、歴史の中に存在した「彼女」たちの姿と思いを浮かび上がらせることによって、現代に続く性別を越えて生きる人たちのセックスワークの水脈を再認識させることにある。
註
(註1)南地五花街とは、宗右衛門町、九郎右衛門町。櫓町、坂町、難波新地。
(註2)近年の研究として、鹿野由行「男娼のセクシュアリティの再考察 : 近代大阪における男娼像の形成とコミュニティの変遷」(『待兼山論叢』49号(日本学篇)、2015年)。鹿野由行・石田仁「戦後釜ヶ崎の周縁的セクシュアリティ」(『薔薇囱』26号、書肆菫礼荘、2015年)。三橋順子「(講演録)日本トランスジェンダー史・女装史とLGBTブーム(大阪の女装文化)」(『Poco a poco』23号、ゲイフロント関西、2021年)、同「「唄子」を探して―大阪における「女装バー」の成立と展開―」(『Antitled』2号、2023年)。
(註3)釜ヶ崎の歴史地理については、下記の論考を参照した。水内俊雄「地図・メディアに描かれた釜ヶ崎―大阪市西成区釜ヶ崎の批判的歴史地誌―」(大阪市立大学大学院文学研究科紀要『人文研究』53巻第3分冊 2001年)、加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』(創元社 2002年)、吉村智博「近代初頭の『釜ヶ崎』―都市下層社会形成史序説―」(『大阪人権博物館紀要』8号 2004年)、同「日雇労働者街『釜ヶ崎』の木賃宿 ―法規制と止宿人の生活実態を中心に―」(『大阪人権博物館紀要』11号 2008年)。なお、公的地名としての「釜ケ崎」は、大正11年(1922)に消滅したが、その後も特定エリアを示す通称地名として使われている。
(註4)三橋順子『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)第6章「日本社会の性別認識」第7節「「女見立て」のセクシュアリティ」、同「女装男娼のテクニックとセクシュアリティ」(井上章一編著『性欲の文化史 1』講談社 2008年)。
(註5)初出は『中央公論』昭和8年(1933)3月号。引用は『(現代文学大系44)武田麟太郎・島木健作・織田作之助集』(筑摩書房 1967年)を底本とするインターネット図書館「青空文庫」の武田麟太郎「釜ケ崎」によった。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000189/files/980_20979.html
(註6)三橋順子「トランスジェンダーと法」(綾部六郎・池田弘乃編著『クィアと法 性規範の解放/開放のために 』日本評論社、2019年)。
(註7)三橋順子「女装者愛好男性という存在」(矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』中央大学出版部、2006年)、同「女装秘密結社『富貴クラブ』の実像」(アジア遊学210 服藤早苗・新實五穂編『歴史のなかの異性装』勉誠出版、2017年)。
(註8)三橋順子『歴史の中の多様な「性」―日本とアジア 変幻するセクシュアリティ―』第9章「女装世界の二〇世紀ートランスジェンダー・カルチャーの構造」(岩波書店、2022年)。
(註9)三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』「あとがきー2つの出会い」(朝日選書、2018年)
この論文は、2010年4月に関西性慾研究会(京都)で行った報告「武田麟太郎『釜ケ崎』を読む-近代大阪の男色文化解明に向けて-」、及び2010年9月に国際日本文化研究センター「性欲の社会史」共同研究会で行った報告「昭和期、大阪における女装文化の展開」に基づき、2024年10月に論文化した者でです。
参照・引用する場合は、著者名とURLの明記をお願いします。
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昭和戦前期、大阪における女装文化の展開
―「釜ヶ崎」の男娼を中心に―
三橋 順子
はじめに
江戸時代中期、大坂における女装をともなう男色文化の中心は、江戸の堺町、葺屋町、木挽町や京の宮川町と同様に、芝居小屋が連なる坂町(南地五花街のひとつ。道頓堀の南、法善寺の東)界隈の陰間茶屋だった(註1)。1768年(明和5)には49人の陰間(女装の少年)がいたことが記録されている(『男色細見・三の朝』)。規模こそ江戸に劣るものの、江戸の歌舞伎女形や色子は「下り子」(上方出身者)が圧倒的だったように、質的には高いレベルにあった。
そうした上方の女装男色文化も、明治維新以後、近代化と西欧キリスト教的な性規範の流入の中で抑圧され、ひたすらアンダーグラウンド化していった。明治・大正期の様相はきわめて資料に乏しく、残念ながらほとんど系統的にたどることができない。大阪という商業都市の発展に伴い、都市周縁、具体的には南へ南へと、塵芥が掃きたてられるように、追いやられていったのではないだろうか。その点、遊廓が新町・堀江から難波新地へ、そして飛田新地へと南に移動していった流れと、軌を一にする。
上方の女装男色文化が、再び社会の表面に浮かんできて、断片的ながらも一般人の視野に入ってくるようになるのは、ようやく昭和に入った頃、1920年代からである。
20世紀末、1980~90年代(昭和末期~平成初期)の大阪には、数多くのニューハーフ(商業的なトランスジェンダー)・パブや女装スナック、アマチュア(趣味)の女装クラブが存在し、東京とはまた一味違った女装文化が繫栄した。しかし、その系譜を歴史的にたどる研究はほとんどなされていない(註2)。
そこで本稿では、限られた資料からではあるが、まず昭和戦前期の大阪における女装をともなう男色文化の系譜を、大坂南郊「釜ヶ崎」を主な舞台に可能な限りたどってみたい。
1 「釜ヶ崎」というエリア
釜ヶ崎は、大坂の南の郊外、旧・摂津国西成郡今宮村字釜ヶ崎で、伝統的な街道筋(住吉街道=紀州街道)であり、火葬場や墓地(鳶田墓)があり、近隣には、飛田遊廓や大規模な被差別部落(渡辺村)が在った(註3)。大阪の盛り場ミナミの黒門町市場からは、日本橋筋を南下し、新世界を経て、釜ヶ崎に至る。
1898年(明治31)に木賃宿営業許可地になり、1904年頃から木賃宿を中核とする「貧民窟」(スラム)が形成されていく。そこには、大阪という都市の拡大により、スラムとその住人を都市のより周縁に追い立てるという都市政策が深く関係している。
地理的には、1885年(明治18)、住吉(紀州)街道の西側に、今宮村をほぼ南北に分断する形で設置された阪堺鉄道(難波~大和川間、現:南海電鉄)のラインを西限とし、1889年(明治22)に今宮村北部を東西に横断する形で建設された大阪鉄道線(後の関西鉄道、現:JR関西本線)の築堤を北限とし、1900年(明治33)に営業を開始する南海電鉄天王寺支線(天下茶屋~天王寺間、1993年廃線)を東・南限とする三角形のエリアが釜ヶ崎として認識されていた。旧町名では、西入船町、東入船町、甲岸(こうぎし)町、海道町、東萩町(現:西成区萩之茶屋)、東田町(現:西成区太子)のエリアである。

(図1)ミナミ~釜ヶ崎の概念図(昭和戦前期)
(加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』註3より)

(図2)釜ヶ崎の町名
(加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』註3より)
「貧民窟」の構造は、木賃宿を核として、低賃金工場労働者、日雇い労働者、廃品回収業者(古物商・屑拾い)、遊芸人、失業者、無職困窮者(病者・身体障害者)、および、それらの家族が集積され、また彼らを客とする最下層の娼婦が集まり、さらにそこに男娼が混じるという形だった。

(図3)大正末期の釜ヶ崎の木賃宿
(加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』註3より)

(図4)1910年頃の釜ヶ崎の木賃宿
(加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』註3より)
2 平井蒼太「大阪賤娼誌」
管見の限り、釜ヶ崎の男娼に言及した最初の文献は、1930年(昭和5)、『犯罪科学』に掲載された平井蒼太「大阪賤娼誌」である。平井は「釜ケ崎の賤娼」の章で、この地における男娼の存在を次のように記録している。
其外流石に此処は、附近一帯を管轄区域とする今宮警察署によつて、去る五月風俗取締と性的犯罪予防の目的を以て、管内居住の被男色常習者と見做されてゐる、拾九才より四拾六才に至る迄の変態性格者八拾余名のリストが作成された土地である丈けに、男色専門の男娼を街頭に散見することは、寧ろ怪しむに足りないことであらうが、尠くも大阪全賤娼街の中での変態的存在として注意するに値するものである。彼等男娼の姿は、夜十時過ぎから午前二時の深夜に掛けて、住吉街道のアスフアルト舗道を漫歩するならば、露路の入口の電柱に細つそりとした身軆を靠(もた)らせ、紺絣の着物の脇の下から両手を胸に差入れた青年の口から「ちよつとちよつとお兄さん」とこの上もなく気味悪い作り声が投げ掛けられる実際に直面することによつて見らるるであらう。
(『犯罪科学』1巻7号、1930年12月)
平井は、「賤娼」(最下層の娼婦)がいるエリアを「旧住吉街道を差し挟んで西成区八田町、東田町、東西入舟町一帯」とし、その付近に深夜、男娼が出没することを記している。
男娼がいつ頃から釜ヶ崎で活動し始めたのか、平井の記述からは不明だが、すでに1930年5月の時点で、今宮警察署によって19才~46才の「被男色常習者」80余名のリストが作成されていたほどで、1920年代に遡ることは確実だろう。「被男色常習者」とは男色において「受け身(受動)」を専らにする人の意味だろう。ここで注目しておきたいのは、、その男娼たちが「紺絣の着物」の非女装の男姿で、女姿(女装)の男娼は、少なくとも目につく限りは、いなかったということである。
ところで、男姿の男娼と女姿の男娼の営業を比較した場合、どちらが有利だろうか? 男姿の男娼の客は男性に性的指向がある男性にほぼ限定される。それはおそらく全男性の5%以下だろう。かなり特異な営業形態と言える。それに対して、女姿、女性に擬態した男娼は、女性に性的指向がある男性すべてが誘客の対象になる。男姿の男娼よりはるかに広い。もちろん、女性の街娼だと思って近づいてきても、男娼とわかった途端に忌避する男性は多い。しかし、「それでもいい」と思う男性もいるし、最後まで男娼と気づかない、女性と信じて性行為を終える客もいる。つまり、女姿の男娼の方が客層が広く、営業的にかなり有利だということだ(註4)。ただし、女性擬態のテクニックが必要になるが。女装男娼の営業的優位性は、今後の展開のポイントのひとつになる。
3 武田麟太郎の小説「釜ケ崎」
1933年(昭和8)、武田麟太郎(1904~1946)の実録的小説「釜ヶ崎」が発表された(註5)。まず、その粗筋を紹介しておこう。
1932年(昭和7)の冬の夜(12月14日)、3日前、苦労して育ててくれた母親を亡くした東京在住の小説家が母の追憶にひかれて、生れ育った釜ヶ崎の街を訪れる。12歳まで母と過ごした家の前に佇んで思い出に浸っていると、中から出てきた女に家の中に引き込まれてしまう。
生家は、「淫売婦」相手の貸間に変じていた。小説家は子供の頃、落書きをした尾上松之助の似顔絵が残る階段を上り、二階の六畳間を二つに仕切った部屋で、求められるままに女に50銭を渡すが、「それには及ばぬ」と「遊び」(性的交渉)を拒絶する。
女と言葉をやり取りしながら観察するうちに、「あんたは、女とちがふな」と、小説家は女と思った人物が女装した男性であることを見抜く。女装の男娼は、小説家が自分の話に興味を持ち出したことを知って、自宅(第二愛知屋)に誘う。
女装男娼の家に向かう途中、「浮浪者」が行き倒れ収容される現場に出会う。「女装」は小説家を「焼酎屋」に誘う。そこに居合わせたアルコール中毒っぽい「外套の男」に請われて「粥屋」に行き、2人に芋粥をおごらされる。結局、「外套の男」も一緒に、「女装」の住む「第二愛知屋」の一室に泊ることになる。3畳足らずの「女装」の部屋には、母親とすでに女装して男娼稼ぎを始めている弟がいた。
翌朝、「外套の男」が姿を消し、泊り賃50銭を財布から抜かれた小説家は、「女装」の部屋を後にして、駅に向かう。途中、露店の「煮込屋」や古道具屋を覗いたり、「肩掛の女」から市電の切符を買 ったり、皮膚病の「乞食」の少年と言葉を交わしたりする。
小説家はその夜、難波で、新聞記者某氏に出逢い、釜ヶ崎の話をする。某氏もそれに応じて釜ヶ崎の女の行路病者と「ルンペン」の夫の話題を提供し、「小説にならんか」と言う。小説家は、それには即答せず、家へ戻った後、それと「昨夜来の経験とを織りまぜ、小説に作りあげて見よう」と決心し、資料(「大阪市不良住宅地区沿革」)を読み始める。
大阪生まれで、当時は東京在住の小説家武田麟太郎は、1932年11月、釜ヶ崎の簡易宿泊所(木賃宿)を管轄する大阪市役所社会部福利課勤務の知人・古藤敏夫とその同僚杉丙三の案内で釜ヶ崎を訪れる。その後も一人でしばしば訪れ「おかま」がいる二階に上がって取材した。その「おかま」が「必ず一遍は子供を産んでみたい」と言ったのを気に入り、「きっとこの科白を使て小説を書くんや」と興奮した。そして、翌1933年、女装男娼との出会いを中心にスラム「釜ヶ崎」の社会を描いた小説「釜ヶ崎」を『中央公論』に発表する。
小説家の主人公と出会い、釜ヶ崎探訪の案内役になるのは、「日本髪の頭」で、女の着物を着た「艶っぽい声」の「今まで一ぺんも(男だと)見破られたこと」はないという完全な女姿の20歳の女装男娼である。
また「彼女」は姿かたちが女であるだけでなく、「その日常生活の末々端々にいたるまで女子として行動し」ている、女として生きている人で、周囲の人たちからも女として認識されている。商売(セックスワーク)も「ええ、ちゃんと、そいで商売してますねん、をなごとしてな」と言っているように、女として営業している。
ちなみに、「彼女」の料金は50銭で、木賃宿の「彼女」の部屋に泊る場合は、泊り賃として別に50銭をとっている。当時の釜ヶ崎の「賤娼」は「五拾銭淫売」という俗称があったように、標準価格は50銭だった。「彼女」も同様だったことがわかる(女として営業しているので、そうなる)。
この時期の物価は、かけそば10銭、しる粉15銭、天丼40銭、映画館入場料50銭、日本酒(並1升)1円、日雇い労働者日当1円30銭、米(10kg)1円90銭である。現在との比較では1円=約3000~4000倍程度だろうか、とすると、50銭は1500~2000円見当ということになる。
さらに、将来的にも「完全な『女』」として生きる決心」をしていて、「かうなつたからには、意地でも、どうかして子どもを産んで見せます!」と断言するように、心理的にもいたって女性的である。
こうした「彼女」の人物造形は、取材の経緯や、市井の人々の生活と庶民の哀感をリアルに描くことを重視した武田の作風からして、創作ではなく、かなり実在の人物に近いと思われる。
また「彼女」には14歳の弟がいるが、その弟も「昨年あたりから(13歳から)女になって、客をとることを覚え」、「やつぱり歳のすくないのは、骨がやはらかいし、肉もしまつてまへんよつてに、もうわてらと較べもんにならん位、よう売れます」と「姉」がうらやむほど、かなりの売れっ子になっている。
その「姉」自身も「まだ子供の時は、これでも綺麗や云うて、お客がたんとつきましてな――なんにも知らんとな」と述懐しているように、かなり低年齢から女装男娼の稼ぎをしていた。
貧しい階層に生まれた男の子が12~13歳頃から女装して「少女」としてセックスワークを行う事例は、現代でも東南アジア(フィリピンやタイ)など発展途上国で見られる。その年齢の少年は収入の道に乏しく、少女ならセックスワークでそれなりの収入が得られるからである。もちろん少年なら誰でもできることではなく、適性や技術(化粧)が必要になるが、小説「釜ヶ崎」の事例は、そうした形態が1930年代の日本にも存在したことを教えてくれる。
小説「釜ヶ崎」は、釜ヶ崎で活動する女装男娼の生態をリアルに描き、プロレタリア文学の高揚期(弾圧開始直前)という時代性もあり、社会的インパクトが大きく、釜ヶ崎の女装男娼の存在を広く世に知らしめた。
4 上田鹿蔵(笑子)の事件(1926年=大正15年)
『東京日日新聞』1926年(大正15)5月28日朝刊に、上野公園で2人の女装青年が逮捕されたという記事がある。東京での事件だが、女装青年の1人上田鹿蔵は関西からの出稼ぎで、その来歴は釜ヶ崎と関連する。以下、いささか長くなるが引用してみよう。
上野公園に現われた美人の辻君 捕えてみえればこはいかに 女装の男性とは
上野公園からうら若い美人がふたりと男ひとりを、本郷富士署の松見刑事が引致して取り調べると、ふたりの女は、意外にも女装せる青年で、奈良県北葛飾郡新庶(庄ヵ)村、上田鹿蔵(一六)、埼玉県北足立郡大和田村野火止、渡辺芳雄(二十五)、ならびに神戸市兵庫和田崎町三九、井上林八(四〇)という。この三名はいずれも、目下、下谷区入谷町一六七、若松太郎方の一室を間借りしているが、芳雄と鹿蔵は希代の変態性欲者で、林八が見張り役となり少年を誘拐したり、紳士、学生などを釣り込んでは変態の性的満足を与えて金銭をもらっていた。 なお、鹿蔵は、昨年六月、大阪の某富豪のむすこを欺き金をつかわせ、その、むすこを家から勘当同然の身の上にさせたと自白しているが、芳雄は、一昨年まで本所区高橋辺で、某会社員橋本右衛門という者と夫婦気どりで同棲していたともいう。 林八は、元鍛冶屋であったが、数年前に法界屋となってあちこち流し歩いているうちに、一昨年十一月ごろ浅草公園で芳雄と、昨年二月、鹿蔵と大阪中之島公園で知り合いとなり、一もうけしようと、ふたりの変態性を利用したものであるが、芳雄、鹿蔵のふたりはいずれも十三、四歳ごろから既に変態性欲者になり、服装や言語まで女そのままに変わってしまった。 芳雄は、郷里に父母兄弟もあるが、十五歳の時上京し、放浪生活を続けていたため、今は郷里とも文通していない。 鹿蔵には、母たつ(五二)と四人の兄弟があるが、貧困のため、昨年、大阪に出て来て以来、月々百円から二百円ぐらいずつを母の手もとに送っていたが、都合のいい時は月々二百円ぐらいの収入があるといっている。
ここに見える16歳の女装少年・上田鹿蔵こそ、1960~70年代に「関西男娼の女王」と呼ばれ、女装男娼の大ボス(元締め)として有名になる上田笑子(1910~?)の若き日の姿である。鹿蔵は奈良県北葛飾郡新庄村(現:葛城市)の出身で、1925年2月に15歳で大阪に出てくると、中之島公園で法界屋の男、井上林八と知り合い、ある富豪の息子を誑し込んで金を使わせるなど、15~16歳ながら女装男娼として一人前の稼ぎをしていた。鹿蔵が母親に送っていた月100~200円を、当時の公務員(高等官)の月給が75円であったことと比較すると、その荒稼ぎぶりがわかる。おそらく大阪での荒稼ぎのほとぼりをさますため、井上とともに東京に出稼ぎに来て、その縁で東京の女装男娼・渡辺芳雄と知り合ったのだろう。
ところで、この上田鹿蔵こと笑子は、後年、女装男娼になった経緯を次のように語っている。
あたしがどこかでチョロまかしたお金をふところにして ―いまのお金にして二千円ほどになるかいナ― 貨物列車に乗って家出したのは、数えで十二歳の時やったなァ……。着いたところが大阪。西も東もわかりまへん。雪の降る心斎橋の欄干にもたれて一人泣いていたんですわ。その時、声をかけてくれたのが、新世界一座の芸人さんでした。一年ほど使うてもろたけど、夜になると、一座のオッサンがやってきて、あたしの身体をネブるんや。毎晩のように続いたわ。そいですっかりネブられるのが好きになったんやネ。十三の時、ひとりで釜ヶ崎のヨシノ屋いう男娼のたまり場に行きましてん。その頃のオカマはんはみな男装で、女装したんは、あたしが初めてなんよ。」
(「衝撃の告白44 大阪・釜ヶ崎、上田笑子の陽気なゲイ人生 私の“オカマ道場”の卒業生は四千人よ」『週刊ポスト』1970年12月25日号)
上田鹿蔵こと笑子の生年が1910年(明治43)であることは、ある記者が戸籍を調査して確認しているので、ほぼ確実である。12歳で家出して大阪に出てきたのは(数え年として)1921年(大正10)、13歳で釜ヶ崎の男娼のたまり場「ヨシノ屋」に行ったのは1922年(大正11)ということになる。
1922年頃、釜ヶ崎に「ヨシノ屋」(おそらく木賃宿)という男娼のたまり場」があったことがわかる。また「その頃のオカマはんはみな男装で、女装したんは、あたしが初めてなんよ。」という笑子の言を信じるならば、釜ヶ崎に女装男娼が出現するのは1922年頃、大正末期で、13歳の女装男娼が実在していたことになる。
ここで思い浮かぶのは、1932年(昭和7)に武田麟太郎と出会い、釜ヶ崎を案内し、小説「釜ヶ崎」の女装男娼のモデルになったのは上田笑子なのではないか?ということだ。笑子は1932年には23歳で、武田が会った女装男娼は20歳で年齢が合わないが、数歳、あるいは5歳くらいサバを読むのは、女装の世界では珍しいことではない。笑子が釜ヶ崎の女装男娼第1号であり知られた存在であることを思うと、あながち妄想とも言えないだろう。
5 女装男娼田中茂子の事件(1937年=昭和12年)
もう1つ、女装男娼について報じた新聞記事を掲げておこう。1937年(昭和12)4月21日夜、東京・銀座四丁目交差点付近で、田中茂子という人物が密売淫(無届売春)の容疑で逮捕された。
真逆と思うこの姿 大抵騙される 盛り場で袖ひく女装男 最近、銀座、新宿、上野などの往来で、通行中の男に秋波を送り、なにかと話しかけては、待合、旅館などへ誘って風紀を紊す振りそで姿の麗人があるのを、警視捜査第一課不良少年係で聞き込み、二十一日夜、杉沢、水上両刑事が、銀座四丁目交差点付近で網を張っていると、それとは知らず、水上刑事のそでを引いた。パーマネントに錦紗の羽織、振りそで姿の女を取り押えて調べると、右は、奈良県高市郡畝傍町字新町松造の二女田中茂子(二四)と称し、五人兄弟の末子で、十四歳の時家出し、神戸、大阪などで女給をし、本年二月上京、下谷区入谷町二三五碓井作太郎方に同居していると、密淫売数件をスラスラ自供したので、同夜はそのまま留置したところが、二十二日、渡辺警部が調べようとすると、なんとなく女にしてはおかしな点があるので、追及すると、意外にも、女装青年であることがわかり、係官を驚かした。 この男、実は松造の四男茂(二四)で、十四歳の時家出、大阪で活動写真を見物中、女装の青年と知り合い、大阪市西成区今宮町でその青年と同居したのが始まりで、その後、女装してはカフェー、バーなどで女給をしていたが、今まで一度も看破されたことはなく、ただ徴兵検査のさい男に返っただけで、検査後は再び断髪パーマネントの麗人になりすまし、大阪、神戸でカフェー、バーなどの女給をしていたもの。 本年二月上京。田中ゆみ子という名で銀座、上野、新宿の盛り場を流して男を物色し、待合、旅館などにくわえ込み、十円、二十円とまき上げていた。 相手の男の中には、関西某市市議八木某、古川緑波一座の吉川孝ほか数名あり、中には「ゆみ子さん、あなたが結婚してくれなければ、わたしは死にます」と、熱くなっている男もあったほどで、その声なども女そっくりで、これら男の中でただひとりも見破った者はなかったそうだ。銭湯に行く時は、いつも、だれも行かない朝早く、男物の着物を着て男湯に行き、帰ってから化粧していた。 警視庁では、同人の長く延ばした髪を刈って坊主頭にしたうえで釈放することになるらしいが、ご本人「男になるのなんかいやだワ。こんな商売が悪いのなら、舞台にでもでてみたいワ」とダダをこねている」
(鎌田意好「異装心理と異装の実態」『風俗奇譚』1965年7月号)
この記事、残念ながら、掲載紙、掲載日が不明だが、1930年代の東京でときどきあった、密売淫の容疑で逮捕した女性が、実は男娼であり、女性を行為主体としている密売淫禁止の法規(「警察犯処罰令」第1条2項)が適用できずに釈放となる典型的な事例である(註5)。
この田中茂こと茂子もしくはゆみ子は、奈良県高市郡畝傍町の出身で、14歳の時に家出し、大阪で活動写真を見物中に、女装の青年と知り合い、大阪市西成区今宮町でその青年と同居したのが女装人生の始りだという。1937年に24歳ということは、1927年(昭和2)に誘われたことになる。当時、釜ヶ崎の南部の西成区今宮町に女装の青年が居住していて、素質のありそうな家出少年を勧誘(リクルート)していたことがわかる。
ちなみに上田笑子とは奈良県出身であることが共通する。笑子が「あら、あたしも奈良出身なんよ」と、茂少年を誘ったのかもしれない。
実は、この田中茂子、4年前の1933年(昭和8)3月、19歳の時にも、まったく同じように銀座で密売淫の容疑で逮捕されている(『東京日日新聞』1933年3月19日)。大阪・釜ヶ崎を本拠とする女装男娼がしばしば東京に出稼ぎに来ていたことがうかがえる。
ところで、3・4節で紹介した記事は、1960~1980年代に活動した女装秘密結社「富貴クラブ」の創立者・会長であり、戦前・戦後を通じて女装者愛好一筋に生きた典型的な「女装者愛好男性」(自分は女装しないが女装者を愛好する男性)、西塔哲(筆名:鎌田意好、かまだいすき)がスクラップしていたものである(註7)。西塔は釜ヶ崎を訪れ、田中茂子に実際に会っていて、その思い出を記している。なお、時期は、茂子が最初に逮捕されて評判になった1933年の少し後、おそらく1935年(昭和10)前後と思われる。
それは私が就職匆々(そうそう)の事で、当時、神戸の方へときどき出張させられた。その余暇を利用して、有名な釜ヶ崎に足を入れる様になった。最初は東京と全然異なった雰囲気に戸惑いしたが、結局六感をはたらかせて地廻りの八さんと近付きになり、彼を通じて数人の釜ヶ崎の代表美人達と親しくする様になった。 前記の田中茂即ち茂子もその一人だった。女装が法律で禁止されていた当時でも、釜ヶ崎スラムを中心に心斎橋道頓堀周辺は笑子姐御を始めとして数十名のオカマが夜の闇を我がもの顔に活躍していた。その頃は、今日の「男娼」と云う言葉は未だ無く、「ガタ」あるいひは「オカマ」の名称で呼ばれており、面と向かっては、「お姐ちやん」と云う呼名が一番適切で、本人達もそれを喜んでいたし、「あんたお姐ちやんじゃないか」と呼ぶ事に依って、自分が男色党だと云う風に相手方に認識させていた。 此の茂子は、彼等の仲間でも年少者の方で東京で新聞種になつて以来、なかなかの売れっ子になつていて、相当な紳士や文士連の客があり、青二才の私輩が馴染になる迄には相当大阪通いをしたものだつた。髪はヅカガールの男役の様な刈り上げ方で、色白の小柄な美少年で、流石に若さが物を云つてか、抱き締めると柔軟なピチピチした肉体は、まるで若い娘の様な弾力さえある。夜になると一時間もかかつて化粧し、着付けを済ませて、束髪の鬘をすつぽりと被ると、もうすつかり若い娘になり切つて仕舞う。 本人の話では、奈良の農家の二男坊に生れたが、子供の時から女の様で、友達と遊ぶのも女の子ばかり、小学校を卒業して百姓を手伝っていたが、女になりたくて堪らず、村の盆踊りなどで女装すると、若い衆連は女と間違えて言い寄つてくる始末。とうとう家をとび出して旅役者の群に入り、女形専門にやつていたが、旅芝居ではロクな収入にもならないのと、思う様な同性も得られずに行く先々で言い寄ってくるのはみな娘や女房連なので、見切りをつけ、フリーな立場で男性の愛を得、且つ収入も好い男娼業に転向したのだそうである。ひげの生えていないすべすべした顔立ちと云い、嫋々とした肢体と云い、全く女になり切つている。 此のグループの大姐御の笑子(二十五歳)などは、何時も錦紗づくめの黒紋付、冬場は狐の襟巻などして堂々たる奥様然としたスタイルで、心斎橋から道頓堀の附近を稼ぎ場とし、相当な紳士風の客でなければ相手にしないと云つた大物である。住いなども他の連中と違つて、一戸を構え、女中迄使つている豪勢さで、家に戻れば女中に奧様と呼ばせている程総べて女の生活である。
(西塔哲「女装まにやの手記」『風俗草紙』2巻4号、1954年4月)

(図5)田中茂子
長い引用になったが、この西塔の回想は、昭和戦前期の釜ヶ崎の女装男娼と接した男性の記録として唯一無二のものであり、とても貴重である。
まず、1935年(昭和10)前後、女装男娼がいる場所として、釜ヶ崎がすでに「有名」だったこと。これは武田の小説「釜ヶ崎」の効果だろう。次に、釜ヶ崎には笑子、茂子をはじめ複数の女装男娼がいたこと。これは笑子たちによるリクルート活動に加えて、小説「釜ヶ崎」の効果で女として生きたい男たちが自発的に集まってきたと思われる。そうして集まった女装男娼が、上田笑子を中心にグループ化されていたことは重要である。
茂子については、東京での逮捕が「箔付け」になって売れっ子になったこと,釈放時に警察で髪を切られたためか、鬘を使っていたことなどがわかる。
笑子については、すでに「大姐御」になっていて、本拠地の釜ヶ崎でなく、より上客が得られる大阪中心部の盛り場、心斎橋~道頓堀に進出しているのが興味深い。同じ時期の東京で、浅草が本拠の女装男娼が、関東大震災の後、盛り場として台頭してきた銀座に進出していったのと同じ現象である。
一方、こうした状況は、女装男娼の生業を支えるだけの需要があったことを思わせる。内務省の官吏である西塔が公務出張にかこつけて、東京から釜ヶ崎にせっせと通ったように、全国各地から女装者愛好男性が釜ヶ崎を訪れたのではないだろうか。
6 2つの女装男娼の集合写真
戦前期の女装男娼の集合写真が2点残っている。一つは、『週刊文春』1959年6月15日号の「日本花卉研究会-世にも不思議な社交クラブ-」という記事に掲載されている「大正時代の大阪の男娼たち」と題された写真で。8人の人物が室内で椅子に腰かけ横並びに写っている。

(図6)大阪の女装男娼の集合写真
皆それぞれに着飾った姿で、背景などから、レストランのような場所で記念撮影的に撮られたものと思われる。写真の下には各人の男性名と女性名、そして年齢が記されていて、この人たちが本物の女性でないことがわかる。写真が小さく不鮮明なのが残念だが、皆、なかなかの女っぷりで、女装レベルの高さがうかがえる。当時は、まだアマチュア(趣味)の女装者は顕在化していないので、「彼女」たちは、プロフェッショナルな女装者、つまり女装男娼であると推定される。
問題は撮影時期で、元の記事は「大正時代」としているが、昭和の着物史を研究している私の目からすると、直感的にもっと新しい昭和戦前期の写真ではないかと思った。というのは、左端の「繁子」が着ている幾何学模様の着物(銘仙?)、左から3人目の「百合子」が着ている大柄の模様銘仙?は大正期では早すぎ、こうしたモダンな柄は、1930年代(昭和5~15)の流行と思われるからだ。
次の注目点は、右端に写っている「藤井一男 笑子 二十五年」である。この「笑子」は、3・4節に登場した釜ヶ崎の女装男娼、上田笑子(本名:上田鹿蔵)ではないだろうか。本名はまったく違うのだが、「笑子」の「笑」は男性名にはまず使われない字で、茂→茂子のような安易な女性名のつけ方ではなく、かなり凝っていて、同名の女装男娼がいるとは思えない。「笑子」=上田笑子とし、かつ25歳という記述が正しいとすれば、この写真は1934年(昭和9)の撮影ということになる。
次に左端に写っている「田中繁雄 繁子 十九年」に注目しよう。これは4節で紹介したし、田中茂子(本名:田中茂)ではないだろうか。「繁」と「茂」で字は異なるが読みは「しげ」で同じだからだ。西塔哲の思い出話から、茂子が笑子を姐御とする釜ヶ崎の女装男娼のグループに属していたことが分かるので、笑子と同席して写真に写っていてもおかしくない。ただし、茂子が19歳だったのは1933年なので、撮影時期を1934年とすると、1歳の誤差がある(19歳を2年やっている?)。
これらの推定から、この写真は上田笑子を姐御とする釜ヶ崎の女装男娼のグループの集合写真である可能性が出てきた。さらに、それを証明するのが左から3人目の「三浦三郎 百合子 十九年」である。
先に引用した西塔哲の釜ヶ崎の女装男娼の思い出の末尾に「此の二人(茂子と笑子)に併んで、も一人百合子と云うのもいた。前身は食堂ボーイとか謂われていたが、器量の点では、あるいは三人の中で一番美人かと思われた」と百合子が出てくる。
笑子、繁(茂)子、百合子の一致により、この写真が上田笑子をリーダーとする釜ヶ崎の女装男娼のグループの集合写真であることがほぼ確定的になった。
2枚目は、井上泰宏『性の誘惑と犯罪』(あまとりあ社 1951年)の口絵に「女化男子」というキャプションで掲載されている屋外で10人の「女化男子」が5人ずつ前後2列に写っている集合写真である。

(図7)「女化男子」の集合写真
「女化男子」とは、20世紀前半に流行した変態性欲学の概念で、男性同性愛の傾向が強まった結果、身体や容姿が女性化した男性のことである。その時代の日本では、「女化男子」の職業としては、わずかに芝居の女形、女装芸者があるものの、多くはセックスワークしかなかった。したがって、この人たちは女装男娼である可能性が高い。
この写真、撮影時期・場所が記されていないが、先と同様に着物史的に見てみよう。屋外での撮影ということで、10人中7人が大きなショール(肩掛け)を羽織っている。この手のショールが大流行するのは1930年代で、図5でも室内にもかかわらず右から4人目の「お千代」が羽織っている。また前列左から3人目が着ている大きな柄の模様銘仙?も、この時期らしい。これらのことから、図6の撮影時期 は、図5とほぼ同時期の1930年代と推測できる。
撮影場所については、ほとんど手掛かりがない。ただ、断定的には言えないが、図5とは同じ人物はいないように思う。当時の大阪に2つの女装男娼のグループがあったとは思えず、ということは大阪以外、東京の可能性があるように思う。当時の東京で、女装男娼が集まっていたのは浅草だが、東京・浅草の撮影と推定するまでの積極的な根拠はない。
とは言え、昭和戦前期、1930年代に、大阪、あるいは東京で、これらの集合写真が示すように8~10人の女装男娼が集まり写真を撮るような横のつながりがあったこと、グループ化が進行していたことは、ほぼ確実に言えると思う
グループ化によって何がなされたのか、残念ながら資料的にはよくわからない。後代(昭和戦後期)の状況から推察するに、誘客エリアの場所割り、最低料金の設定、グループ外の男娼の排除、警察の取り締りへの共同対処などが推測できる。
7 戦災による「釜ヶ崎」の壊滅
1945年(昭和20)3月13~14日の大阪大空襲で、スラムとしての「釜ヶ崎」は全焼する。

(図8)1948年撮影の空中写真
1948年にアメリカ軍が撮影した空中写真を見ると、阪堺鉄道を西限とし、大阪鉄道線を北限とし、斜めに走る南海電鉄天王寺支線を東・南限とする三角形の釜ヶ崎エリアのほとんどが焼け跡状態であることが見て取れる。一方、南海支線の東南のエリアには長屋状の建物が密集していて、空襲の被害を免れたことがわかる。
人が若し阿倍野名物と問うならば、私は即座に、今は焼けてなくなったが、スラム街釜崎の五拾銭淫売と、ショウトウ、ヒデンと唄われた飛田の姐さん、それに女装変態男「オカマ」の三つを挙げるであろう。
(南里 弘「男娼を衝く ―南大阪のおかま案内―」『奇譚クラブ』3号、1948年)
釜ヶ崎に形成されていた女装男娼の世界は、戦災によっていったん壊滅した。男娼立ちは、戦災を免れた東の「旭町」に移動して、新しい時代(昭和戦後期)を迎えることになる。
おわりに
断片的な資料から、昭和戦前期における釜ヶ崎の女装男娼の姿をたどってきた。釜ヶ崎における女装男娼の出現は、(本人=上田笑子の言を信じるならば)1922年(大正11)である。大きな画期となったのは1933年(昭和8)発表の武田麟太郎の小説「釜ヶ崎」であり、これによって「釜ヶ崎の男娼」の知名度が飛躍的に高まり、女として生きたい男娼志望者や、それを好む男性客が釜ヶ崎に集まり活況を呈するようになる。そして「草分け」である上田笑子を中心に女装男娼たちがグループ化していく。その全盛期は、集合写真が撮られた1934年(昭和9)から日中戦争が始まる1937年(昭和12)頃と推測される。
最後に、明治~大正期にアンダーグラウンド化した女装のセックスワーカーが、なぜ昭和期に入る頃から再び顕在化したのか、その理由を考察しておこう。
基本的には、ジェンダーを女性に転換した男性に対する根強い性的欲求、それを性的指向(sexual orientation)というべきか、性的嗜好(sexual preference)というべきかはともかく、需要があったということだ。それは、日本の性愛文化の伝統と深く関わる通時的なもので、文明開化によって流入したキリスト教文化に由来する西欧近代的な性規範でも潰せなかったということだ。
次に関連を考えるべきは、この時期の大都市における「盛り場」の形成だろう。鉄道の駅を中核に、デパートなどの商業施設や、劇場・映画館などの興行施設が集中する近代的な「盛り場」に大勢の人が集まるようになる。大阪における新世界、難波(ミナミ)、東京における浅草、銀座などである。そこが女性の街娼(密売淫の摘発対象)の誘客エリアとなり、そこに女性に擬態した女装男娼が混じるという構造が推測される。そして、誘客エリアの「盛り場」から遠くないスラムが「彼女」たちの本拠(居住地)となる。大阪における新世界、難波と釜ヶ崎、東京における浅草と山谷の地理的関係がそれである。女装男娼の再顕在化は、都市文化的な現象として理解することが可能だろう。
昭和戦前期において、女として生きたい男の生きる術は、限られた芝居の女形や女装芸者(もどき)を除けば、セックスワークしかなかった(註8)。女として生きたい男たちが、性的少数者にとってきわめて厳しい時代環境、社会状況の中で、男娼という生業を通じてグループ化し、釜ヶ崎という場に生活の拠点を築いたことは、もっと評価されていいと思う。
ところで、現代日本のLGBT人権運動において、セックスワーカーに向けられる視線はけっして温かいとは言えず、忌避的ですらある。しかし、トランスジェンダー、とりわけ男性から女性へのトランスジェンダーにとって、セックスワークは、過去だけでなく現代においても重要な生業(生きる術)の一つである。欧米でもアジアでも、多くの元、あるいは現役のセックスワーカーが人権運動の担い手として活躍しているのと、かなり大きな差がある。
私は自らの経験から、セックスワークについて論じる場合、可能な限りセックスワーカーの存在と主張に寄り添う姿勢をとることにしている(註9)。この論考は、歴史の中に存在した「彼女」たちの姿と思いを浮かび上がらせることによって、現代に続く性別を越えて生きる人たちのセックスワークの水脈を再認識させることにある。
註
(註1)南地五花街とは、宗右衛門町、九郎右衛門町。櫓町、坂町、難波新地。
(註2)近年の研究として、鹿野由行「男娼のセクシュアリティの再考察 : 近代大阪における男娼像の形成とコミュニティの変遷」(『待兼山論叢』49号(日本学篇)、2015年)。鹿野由行・石田仁「戦後釜ヶ崎の周縁的セクシュアリティ」(『薔薇囱』26号、書肆菫礼荘、2015年)。三橋順子「(講演録)日本トランスジェンダー史・女装史とLGBTブーム(大阪の女装文化)」(『Poco a poco』23号、ゲイフロント関西、2021年)、同「「唄子」を探して―大阪における「女装バー」の成立と展開―」(『Antitled』2号、2023年)。
(註3)釜ヶ崎の歴史地理については、下記の論考を参照した。水内俊雄「地図・メディアに描かれた釜ヶ崎―大阪市西成区釜ヶ崎の批判的歴史地誌―」(大阪市立大学大学院文学研究科紀要『人文研究』53巻第3分冊 2001年)、加藤政洋『大阪のスラムと盛り場―近代都市の場所の系譜学―』(創元社 2002年)、吉村智博「近代初頭の『釜ヶ崎』―都市下層社会形成史序説―」(『大阪人権博物館紀要』8号 2004年)、同「日雇労働者街『釜ヶ崎』の木賃宿 ―法規制と止宿人の生活実態を中心に―」(『大阪人権博物館紀要』11号 2008年)。なお、公的地名としての「釜ケ崎」は、大正11年(1922)に消滅したが、その後も特定エリアを示す通称地名として使われている。
(註4)三橋順子『女装と日本人』(講談社現代新書、2008年)第6章「日本社会の性別認識」第7節「「女見立て」のセクシュアリティ」、同「女装男娼のテクニックとセクシュアリティ」(井上章一編著『性欲の文化史 1』講談社 2008年)。
(註5)初出は『中央公論』昭和8年(1933)3月号。引用は『(現代文学大系44)武田麟太郎・島木健作・織田作之助集』(筑摩書房 1967年)を底本とするインターネット図書館「青空文庫」の武田麟太郎「釜ケ崎」によった。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000189/files/980_20979.html
(註6)三橋順子「トランスジェンダーと法」(綾部六郎・池田弘乃編著『クィアと法 性規範の解放/開放のために 』日本評論社、2019年)。
(註7)三橋順子「女装者愛好男性という存在」(矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』中央大学出版部、2006年)、同「女装秘密結社『富貴クラブ』の実像」(アジア遊学210 服藤早苗・新實五穂編『歴史のなかの異性装』勉誠出版、2017年)。
(註8)三橋順子『歴史の中の多様な「性」―日本とアジア 変幻するセクシュアリティ―』第9章「女装世界の二〇世紀ートランスジェンダー・カルチャーの構造」(岩波書店、2022年)。
(註9)三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』「あとがきー2つの出会い」(朝日選書、2018年)
2025-01-29 09:48
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