20世紀末(1990年代前半)の商業女装クラブ(その30)南麻衣子さんの思い出 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]
1月26日(日)
「エリザベス会館」に南麻衣子さんという先輩がいた。
私が通い始めた頃、もう数人しかいなかった「3階建てビル」時代を知っている最古参の方。
年齢はたぶん私より2歳上だったと思う。
お父様は自民党の重鎮(誰だか知っているけど書けない)、ご本人は慶應義塾大学卒業で、一流商社に勤務。
お家は田園調布という絵に描いたようなエリートだった。
メイク室の隅の窓際で、ボディコン・ミニワンピース姿で、まだほとんど普及していなかった肩掛け式の携帯電話を使って部下にてきぱき指示を出している姿が印象的だった。
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↑ 南麻衣子さん(右)と。
1993年10月9日、「エリザベス会館」のパジャマ・パーティー。
南さんの衣装は、ほとんどがインポート(英国製が多かった)で、しかも「同じ衣装は2度着ない」という噂だった。
「エリザベス会館」ではクリスマス・パーティーの時、不要品のオークションが開かれる。
南さんの出品は、センスも質も良く、しかも使用頻度が低いということで、いつも一番人気だった。
多くの出品が500円、1000円で決まるのに、南さんの品は桁違いの10000円台に競り上がることもあった。
こうなると、お金が乏しい私には手が届かない。
1992年の春頃だったと思う。
南さんに「順子さん、ちょっとよろしいですか?」(←年下の後輩にもいつも丁寧口調)。
1階の月極ロッカー室に付いていくと、ショッキングピンクと黒のパーティードレスを出してきて、
「よろしかったら、これ着ていただけないでしょうか?着古しでで失礼なのですが」
「えっ?」
「薔薇のモチーフなのですが、私には派手すぎて、順子さんならお似合いだと思うので」
「本当だ、レースが薔薇の柄だし、ここが花びらなんですね。ほんとうにいただいてよろしいのですか?」
「はい、差し上げます。気に入っていただけてよかった。」

↑ 南麻衣子さんからいただいた「薔薇のドレス」。
1992年5月17日撮影。

↑ 黒いレース部分には薔薇の花。
ピンクの部分は薔薇の花びらをイメージしている。
1992年11月26日撮影。
その後も、黒のレザードレス(左)、黄色のフレアー・ワンピース(右)もいただき、ここぞというときに、大切に着させていただいた。

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また、ある時、ロッカー室で出会ったときに、南さんが手にしている鍵束が目に止まった。
「すごい数ですね、いったいいくつあるのですか?」
と質問すると、
「さっき、また1つ借りたので18個になってしまいました」
月極ロッカー代は、大きさにより4000、6000、8000円だった。
「え~っ! それだけロッカー代を払うなら、お部屋が借りられるじゃないですか」
「・・・それもそうですね」
ちょっととぼけたところもあった。
私が「エリザベス会館」から新宿の女装世界に移って、しばらく経ったころ、たしか1996年、私がお手伝いホステスをしていた新宿・歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」に、南さんが姿を現した。
「あれ、お懐かしい。どうされたのですか?」
「もうあそこ(エリザベス)はいろいろ息苦しくて。実は順子さんのアドバイスをやっと実現して、化粧部屋をもてたので、夜遊びができるようになりました」
「私、なにかアドバイスしましたっけ?」
「ロッカーたくさん借りるなら、お部屋の方が安いと・・・」
「あ~、そんなこともありましたね」
南さんのことだから、部屋を借りたのではなく、マンションを買ったのだと思うが・・・。
それから10年近く、新宿で楽しい時間をご一緒した。
ある時、尋ねてみた。
「どうして、私にあんなに親切にしてくださったのですか?」
「私、順子さんのファンだったからですよ」
と、やさしく微笑まれた。
00年代後半、舌がんを患って、お姿が消えた。
まだ50代後半だったと思う。
拙著『女装と日本人』(2008年)で、アマチュア女装雑誌『くいーん』を紹介する節で、南麻衣子さんが表紙の号を図版に選んだのは、やさしくしてくださった先輩の姿を書籍に留めることで、ささやかな恩返しになればと思ったからだ。
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↑ 『くいーん』85号(1994年8月)
「エリザベス会館」に南麻衣子さんという先輩がいた。
私が通い始めた頃、もう数人しかいなかった「3階建てビル」時代を知っている最古参の方。
年齢はたぶん私より2歳上だったと思う。
お父様は自民党の重鎮(誰だか知っているけど書けない)、ご本人は慶應義塾大学卒業で、一流商社に勤務。
お家は田園調布という絵に描いたようなエリートだった。
メイク室の隅の窓際で、ボディコン・ミニワンピース姿で、まだほとんど普及していなかった肩掛け式の携帯電話を使って部下にてきぱき指示を出している姿が印象的だった。
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↑ 南麻衣子さん(右)と。
1993年10月9日、「エリザベス会館」のパジャマ・パーティー。
南さんの衣装は、ほとんどがインポート(英国製が多かった)で、しかも「同じ衣装は2度着ない」という噂だった。
「エリザベス会館」ではクリスマス・パーティーの時、不要品のオークションが開かれる。
南さんの出品は、センスも質も良く、しかも使用頻度が低いということで、いつも一番人気だった。
多くの出品が500円、1000円で決まるのに、南さんの品は桁違いの10000円台に競り上がることもあった。
こうなると、お金が乏しい私には手が届かない。
1992年の春頃だったと思う。
南さんに「順子さん、ちょっとよろしいですか?」(←年下の後輩にもいつも丁寧口調)。
1階の月極ロッカー室に付いていくと、ショッキングピンクと黒のパーティードレスを出してきて、
「よろしかったら、これ着ていただけないでしょうか?着古しでで失礼なのですが」
「えっ?」
「薔薇のモチーフなのですが、私には派手すぎて、順子さんならお似合いだと思うので」
「本当だ、レースが薔薇の柄だし、ここが花びらなんですね。ほんとうにいただいてよろしいのですか?」
「はい、差し上げます。気に入っていただけてよかった。」

↑ 南麻衣子さんからいただいた「薔薇のドレス」。
1992年5月17日撮影。


↑ 黒いレース部分には薔薇の花。
ピンクの部分は薔薇の花びらをイメージしている。
1992年11月26日撮影。
その後も、黒のレザードレス(左)、黄色のフレアー・ワンピース(右)もいただき、ここぞというときに、大切に着させていただいた。

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また、ある時、ロッカー室で出会ったときに、南さんが手にしている鍵束が目に止まった。
「すごい数ですね、いったいいくつあるのですか?」
と質問すると、
「さっき、また1つ借りたので18個になってしまいました」
月極ロッカー代は、大きさにより4000、6000、8000円だった。
「え~っ! それだけロッカー代を払うなら、お部屋が借りられるじゃないですか」
「・・・それもそうですね」
ちょっととぼけたところもあった。
私が「エリザベス会館」から新宿の女装世界に移って、しばらく経ったころ、たしか1996年、私がお手伝いホステスをしていた新宿・歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」に、南さんが姿を現した。
「あれ、お懐かしい。どうされたのですか?」
「もうあそこ(エリザベス)はいろいろ息苦しくて。実は順子さんのアドバイスをやっと実現して、化粧部屋をもてたので、夜遊びができるようになりました」
「私、なにかアドバイスしましたっけ?」
「ロッカーたくさん借りるなら、お部屋の方が安いと・・・」
「あ~、そんなこともありましたね」
南さんのことだから、部屋を借りたのではなく、マンションを買ったのだと思うが・・・。
それから10年近く、新宿で楽しい時間をご一緒した。
ある時、尋ねてみた。
「どうして、私にあんなに親切にしてくださったのですか?」
「私、順子さんのファンだったからですよ」
と、やさしく微笑まれた。
00年代後半、舌がんを患って、お姿が消えた。
まだ50代後半だったと思う。
拙著『女装と日本人』(2008年)で、アマチュア女装雑誌『くいーん』を紹介する節で、南麻衣子さんが表紙の号を図版に選んだのは、やさしくしてくださった先輩の姿を書籍に留めることで、ささやかな恩返しになればと思ったからだ。
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↑ 『くいーん』85号(1994年8月)
2025-01-26 17:17
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