新吉原「お鉄漿どぶ」の埋め立て・縮小 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
1月9日(木)
新吉原の「お鉄漿どぶ」の埋め立てについての新聞記事。
『東京朝日新聞』1901(明治34)年8月1日。
ことぶきさん@kotobuki_76_nagの調査による発見。
この点については、拙著『新宿「性なる街」の歴史地理」(2018年)「コラム1 「廓」という空間」(41頁)に、
「「お鉄漿どぶ」は、開設当初は幅5間(約9メートル)で、溝というより堀というべき規模だった(江戸末期から明治初期に縮小されて幅2間=約3・6メートルとなり、さらに明治後期には3尺=約90センチメートル程になってしまう)。」
とあるように、明治後期の「お鉄漿どぶ」の埋め立て・縮小は既知。
しかし、その時期が明治34年であると史料で確定できたのは貴重。
「明治全盛」の新吉原の大門が門柱だけで門扉がないことも、明治後期の絵葉書から確定できるが、いつからそうなったのか?は、史料的に確定できていないと思う。
新吉原の「お鉄漿どぶ」の埋め立てについての新聞記事。
『東京朝日新聞』1901(明治34)年8月1日。
ことぶきさん@kotobuki_76_nagの調査による発見。
この点については、拙著『新宿「性なる街」の歴史地理」(2018年)「コラム1 「廓」という空間」(41頁)に、
「「お鉄漿どぶ」は、開設当初は幅5間(約9メートル)で、溝というより堀というべき規模だった(江戸末期から明治初期に縮小されて幅2間=約3・6メートルとなり、さらに明治後期には3尺=約90センチメートル程になってしまう)。」
とあるように、明治後期の「お鉄漿どぶ」の埋め立て・縮小は既知。
しかし、その時期が明治34年であると史料で確定できたのは貴重。
「明治全盛」の新吉原の大門が門柱だけで門扉がないことも、明治後期の絵葉書から確定できるが、いつからそうなったのか?は、史料的に確定できていないと思う。
2025-01-09 11:26
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