SSブログ

蕎麦切りの原形態 [生活文化・食文化・ファッション文化論]

9月2日(月)

「X」で友人の研究者が「蕎麦史」論議をしているので、私の見解を少し。

蕎麦(蕎麦切り)の原形態をどのようにイメージすべきなのか?

江戸時代、大都市における蕎麦の大衆化は、屋台見世の「二八蕎麦」が主導したと思われ、その形態は
器に入れた蕎麦に汁をかける「かけ」だった。

これは狭い屋台見世で、丼一つで蕎麦を提供できる合理的な形態だった。
都市における蕎麦文化が「かけ」主流であったことは、間違いないと思う。

しかし、典型的な蕎麦食地帯である埼玉県秩父地方に生まれ育った私の経験(1960年代)からすると、自宅で蕎麦を打つ家では、「かけ」の食べ方を見た記憶がない。
記憶にある限り、すべて、大皿などに並べられた蕎麦切りを付け汁に軽く浸してすする「もり」形態だった。

街の蕎麦屋には「かけ」もあったが、自家食としては「もり」がほとんどだった。

つまり、自家食だった蕎麦切りが、都市に流入して商業化することで、主流形態が「もり」から「かけ」に変化したと思われる。

「もり」の形態も絶えたわけではなく、「もり」の高級化として「ざる」が出現する。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました