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遊廓の移転と近代都市の発展&都市政策 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

5月14日(日)

遊廓の移転と近代都市の発展&都市政策は強く関係する。

都市が発展して、それまでの遊廓が都市の中心部になってくると、「風紀」が問題化され、郊外への移転計画が出てくる。

それを後押しするのが、明治期に多かった「大火」だ。
「大火」自体も、都市の膨張と大きく関わるのだが、遊廓移転もきっかけになる。

昨日報告を聴いた、名古屋市「旭遊廓」の「中村遊廓」への移転や、静岡県藤枝町の「藤枝新地」への移転は、その典型だ。

私が踏査した中でも、東京都八王子遊廓、北海道小樽市の「松ヶ枝遊廓」、富山県の高岡市の「高岡遊廓」など、大火が移転のきっかけになっている。
他にも数多い。

郊外移転した遊廓はほとんどの場合、計画的に地割りされたシンメトリーな姿になる。
近代遊廓は、けっしてごちゃごちゃした町割りではなく、広い道路と整った区画の町並みにが特徴で、当時としては近代的ない異空間となる。

「大火」が移転のきっかけになった近代遊廓では、当事者(妓楼主)の心理的にも、行政の都市政策的にも、防火対策に意識が向くのは当然だ。
八王子遊廓も、松ヶ枝遊廓も、高岡遊廓も、交通路としての機能からしたら、道路幅を過大に広くとっているのは、防火帯としての機能を期待したからだ。

中村遊廓の場合、高く長大なコンクリート防火壁を遊廓中心部を南北に貫いて南北に2本設置しているのは、当時としては画期的。

それを再発見したことぶきさんの仕事は,フィールドワークの大きな成果だと思う。
今回、そのコンクリート防火帯をトンネルのようにくり抜いて、避難用通路が設置されていることに驚いた。
これは見に行かなければと思った。

実は、大火→郊外移転→防火機能をともなったシンメトリーな計画的遊廓というパターンの最初は、江戸の新吉原遊廓だった。

明暦の大火(1657年)の後、日本橋人形町付近にあった吉原遊廓(元吉原)は、江戸の北郊・金竜山浅草寺のさらに北の僻地に移転させられる。

そこでは、広い仲ノ町通りに3本の通りが直交する「三筋町」の計画的なシンメトリーな遊廓空間が設置された。

1923年に開設された中村遊廓も外周道路を別にすれば,基本設計は「三筋町」である。

明治末期~大正期の近代遊廓のお手本(原点)は、250年以上前の新吉原遊廓だったのだ。
そこに新吉原遊廓の先進性がある。



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