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「GID(性同一性障害)学会・第20回研究大会」特別講演「GID学会20年の歩みをふりかえる――医療者でもなく、当事者でもなく――」 [現代の性(性別越境・性別移行)]

3月24日(土)

「GID(性同一性障害)学会・第20回研究大会」(2018年3月24日:東京:御茶ノ水「sola city」)における私の特別講演「GID学会20年の歩みをふりかえる ―医療者でもなく、当事者でもなく―」の講演録。です。

55分の予定を11秒オーバーしてしまいました(反省)。
お陰様で好意的な感想をたくさんいただき、一仕事終えた感じで、安堵しています。

ご来聴の皆様、応援してくださった皆様、ありがとうございました。

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「GID(性同一性障害)学会・第20回研究大会」特別講演
               2018年3月24日:東京:御茶ノ水「sola city」

   GID学会20年の歩みをふりかえる
    ――医療者でもなく、当事者でもなく――

                           三橋 順子

康先生、ご紹介ありがとうございます。

まさか第17回大会に続き2度目の講演をさせていただくとは夢にも思いませんでした。
針間先生が第20回の大会長に決まったとき、長年お世話になっている主治医ですから「振袖着て受付嬢でも、なんでもいたします」と申しましたところ、前半部分は聞こえないふりされて「じゃあ、講演、お願いね」と言われました。

GID学会第20回の記念大会、そして国際的な疾病リストから「性同一性障害」という病名が消え、性別移行の脱精神疾患化がようやく達成されるであろう画期的な年に、こうした機会をいただきましたこと、たいへん光栄に思います。

今日のお話「GID学会20年の歩みをふりかえる ――医療者でもなく、当事者でもなく――」と題しましたが、私は「医療者でもなく、当事者でもなく」という視点から、日本における「性同一性障害」医療の立ち上げ、そして「GID学会20年の歩み」を見てまいりました。いつの間にか、数少なくなった20回連続出席の1人として、過去を振り返ることで問題点を指摘し、未来を考えるお話をしたいと思います。

その前に、「当事者でもなく」という点について、誤解がないように少し説明しておこうと思います。

私は少なくとも2003年以来「性別を越えて生きることは『病』ではない」と、一貫して主張してきました。そして、その考えに基づいて「性同一性障害」概念を批判し続けてきました。
ただ、「性同一性障害」を持つ人たちの生き方は批判していません。その線引きはつけてきたつもりです。講演などでも「性同一性障害の人たちが、手術で性器の外形を変え、戸籍を変更して、それで幸せに生きられるなら、たいへん結構なことだと思います」といつも言ってきました。やや棒読みではありますが。

自身については、自分の状態が「精神疾患」だとはまったく思わないし、「精神疾患」になるメリットもまったく感じなかったので「性同一性障害」を名乗ったことは一度もありません。
メディアなどの取材で「性同一性障害ですか?」と問われたら、「いえ、性同一性障害という立場はとりません」といつもはっきり言ってきました。

「性同一性障害ではない」と言わないのは、私は医師ではなく、病理概念である性同一性障害であるか、ないかの診断をつける立場ではないからです。
臨床経験豊かな専門医が、私の状態をどう診断するかは、純粋学問的に興味はありますが、性同一性障害の診断が出たとしても、私はその診断書を使うつもりはありません。

ということで、これから「医療者でもなく、当事者でもなく」という立場で見てきた20数年間のお話をいたします。
しばらく、老人の思い出話にお付き合いください。

まず前史から。
埼玉医科大学の原科孝雄先生に最初にお目にかかったのは、1995年8月、横浜で開催された「第12回世界性科学会議」のサポートプログラム「日本におけるトランスセクシャリズム」のパネラーで同席させていただいたのが最初でした。
その時、今日は本務校の業務と重なって残念ながらご欠席の東優子さんにもお会いしました。
もう23年も前のことです。

その翌年、1996年7月に、埼玉医科大学倫理委員会がSRS(Sex Reassignment Surgery:性別適合手術)を正当な医療行為として承認したことがニュースになり、「性同一性障害」という概念が日本の社会に浮上してきます。
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↑ 『朝日新聞』1996年7月2日夕刊

そして、1997年5月に日本精神神経学会の「ガイドライン」が策定されます。
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↑ 「読売新聞」1997年5月25日

それを受ける形で、1997年7月に神田学士会館で日本最初の性同一性障害についてのシンポジウム「性同一性障害の過去・現在・未来」が当事者グループの「TSとTGを支える人々の会」の第20会として開催されました。
埼玉医科大学のSRS「第1号」になるFtM当事者の方、原科先生、山内俊雄先生をお招きして、東優子さんと私が司会を務めました。
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↑ 左から原科孝雄先生、山口俊雄先生、石原明先生、東優子さん、私。
原科先生の左側に、FtMとMtFの当事者がいます。
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↑ 21年前の私。若いです。

針間克己先生とは、その時、初めてお会いしました。
東さんは「トップ屋(三流週刊誌の記者)かも?」と警戒したそうですが、私は「患者さんかな?」と思いました。
先年、亡くなられた大島俊之先生は、まだ現れていません。
法学の分野は神戸学院大学の石原明先生をお招きしました。

つまり、日本で性同一性障害の問題が浮上した頃から今に至るまで、ずっとこの世界を見てきた人は、原科・山内の両レジェンドを別格とすれば、東さん、針間さんなど何人かの先生方、そして私と、ほんとうに数少なくなってしまったということです。
時の流れであり、致し方がないことではありますが、やはり寂しく思います。

さて、そうして浮上してきた「性同一性障害」概念を、当時のトランスジェンダー・コミュニティはどう受け止めたのでしょうか? 
その点については、2013年6月に横浜で開催された「第110回日本精神神経学会学術総会・委員会シンポジウム 「性同一性障害の概念と精神医学の関わりを再検討する-DSM-5の発表を受けて-」で「精神医学の外側から見た性別違和と異性装」と題してお話しました。

繰り返しになるので、できるだけ簡潔に述べますが、「現場」、つまり、トランスジェンダーのコミュニティと、そうした人たちが集まる「店」での感触は、一言で表現すれば「寝耳に水の大迷惑」でした。

当時の新宿歌舞伎町のあるお店(ニューハーフ・パブ)のママに語ってもらいましょう。
「そりゃあ、いろいろ大変なことはありましたけど、それなりに皆、楽しく、頑張って働いていましたよ。少なくとも、自分たちが『精神疾患』だなんて、誰も思っていなかったです。それが、ある日、テレビや新聞が『性同一性障害』 『心と身体の性別が一致していない病気』って言い出したわけです。最初は『なんですか?それ』って感じでしたよ。ところが、お客さんに『お前たちって性同一性障害って病気らしいぞ』って言われたんですね。しかも、そのお客さん『俺は、お前たちと楽しく飲んでいるつもりだったけど、じゃあなにか、俺は病人と、その性同一なんちゃらとかいう病気をネタに飲んでいたのか?それじゃあ、俺は人でなしじゃないか』なんてクダ巻くわけです。もうえらい迷惑でしたよ。」
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「店のホステスにそういう方面に詳しい「娘」(↑)がいたんで聞いてみたら『病気ってことにしないと手術ができないから、そういうことにしただけで、お医者さんも本気で精神疾患と思っているわけじゃないみたいで、まあ方便ですね』という話。まあ、それなら仕方がないかな、って思ったんですけどね。ところが、別のウチの『娘』がS医大に行ったら、『ここはあなたたちのような人が来るところではありません』って門前払いされちゃって・・・。お医者さんって、患者を職業で差別しちゃあ、いけなかったんじゃないですか?」

当時の「店」の受け止め方は、まあ、こんな感じでした。

1990年代の日本では、トランスジェンダーに対する社会的理解はそれなりにありました。
「望みの性別」で社会の中で活動することは不可能ではなく、やり様によっては十分に可能でした。
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これは1997年8月、私が主催していた親睦団体「Club Fake Lady」の隅田川屋形舟ツアーの写真です。浴衣姿のきれいどころに囲まれている男性は、皆さん、よくご存知の性科学の世界的権威、Milton Diamond博士(当時・ハワイ大学教授)です。
この時、ダイアモンド博士は「日本のトランスジェンダーの状況はすばらしい!」とおっしゃいました。
若干、社交辞令も含まれていたと思いますが、博士がおっしゃったとおり、そんなひどい状態ではなかったということです。
一般の人と同じように舟宿に予約を入れて、トランスジェンダーの人たちが集まり、舟遊びを楽しむことができたわけですから。

そんな状況の中で、1998年10月、埼玉医科大学が、ガイドラインに基づいたものとしては初めての「性転換手術」、女性から男性への手術を実施し、大きなニュースになりました。
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↑『朝日新聞』1998年10月17日。
新聞各紙は「明日、性転換手術」「性転換手術始まる」「性転換手術終わる」みたいに、「実況中継」的な伝え方でした。
今では信じられないかもしれませんが、それだけ社会的関心が高かったということです。

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↑『スポーツニッポン』1998年10月17日。
スポーツ新聞各紙の扱いも大きかったです。
見出しは「世紀の手術」と「性器の手術」を掛けたた駄洒落ですが、内容はしっかりしていて、ほぼ正確です。
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↑『スポーツ報知』1999年6月26日
こちらは、1999年6月の「2例目」男性から女性への手術の報道です。
1例目と報道の大きさが、あまり変わらなかったのは興味深いです。

そして、埼玉医大の「最初の手術」の半年後、1999年3月、第1回の「GID(性同一性障害)研究会」が青山の「東京ウイメンズプラザ」で開催されます。
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↑ 『読売新聞』1999年4月2日
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↑ シンポジウム「性同一性障害の精神科治療」
左から加澤鉄士、及川卓、都築忠義、阿部輝夫先生です。
(客席最前列右端の人物について「あれ、僕、僕」と大会長の針間先生からアピールあり)

ここからが、「GID学会」、当時はまだ研究会ですが、の歴史になります。
第1回のGID研究会、私は勤務していた大学の所用で、少し遅れて行ったのですが、受付にいらした原科孝雄先生に「あれ? 三橋さん、コンパ要員?」と言われたのを鮮明に記憶しています。以来、20年、コンパ、つまり懇親会要員として1度も欠かさず参加しています。

第2回(2000年)は「ブルーボーイ事件」ゆかりの御成門の慈恵医大が会場でした。いかにも医学系の研究会という雰囲気でちょっと緊張したのを覚えています。
この頃は、メンバーも内容もお医者さんの研究会という感じでした。

印象が強いのは第4回(2002年)の岡山での開催です。
この回から当事者の参加が増加し、かつ,公式の懇親会の後でさらに飲み語るという形、横のつながりができました。
土肥いつきさんもここが初参加です。

また、この回では、中央大学教授で社会学の矢島正見先生が講演されましたが、矢島先生は前年暮に直腸がんの手術を受けたばかりで、体力の回復が十分でなく、もし途中で体力が尽きたら弟子筋の私が講演原稿を代読すべく待機していました。
幸い、矢島先生は最後までお話されましたが、そんな状態でおっしゃった「性別に違和感をもつ人たちには医学だけでなくもっと幅広い学際的な発想で対応すべき」という提言が、その後はたしてどれだけ生かされたかを考えると、いささか残念に思います。

第5回(2003年)は会場が「東京ウィメンズプラザ」に戻りましたが、今から思うと、最も熱く盛り上がった回だったと思います。
その盛り上がりの中核は、言うまでもなく,性同一性障害者の性別変更の法制化をめぐる議論でした。
その最中、平成時代を代表する有名女装者の宮崎留美子先生が入口とは真逆のドアから大きな音を立てて無理やり押し入ってこられて会場の視線を一身に集められたシーンが強烈な印象として残っています。
「ああ、偉大なエンターテナーというものは、登場の仕方から違うのだ」と感心しました。

その4ヵ月後の2003年7月に「性同一性障害特例法」が成立するわけですが、大島俊之先生を総大将とする圧倒的な推進派に対して、少数ではありましたが性別の自己選択・自己決定を主張するトランスジェンダリズムの仲間たちと法案反対の論陣を張ったのは、「筋を通した」という意味で、今でも間違いではなかったと思っています。
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↑『朝日新聞』2003年7月11日。
「特例法」成立は、世間の議論を招かないように、目立たないよう各紙ベタ記事でした。

しかし、『東京新聞』特報部がそんな姑息な作戦を許すはずがなく、反対派の見解もかなり入れての2面使いの大きな記事がでました。
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↑『東京新聞』2003年7月17日
これまだ半分で、左側にさらに大きな記事があります。記者は、日本が世界に誇るトランスジェンダー・ジャーナリスト田原拓治→田原牧記者です。

さて、2004年7月から「特例法」が施行されて、懸案だった性別変更の法制化問題が一段落した後の第7回(2005年)は、大島先生の神戸学院大学での開催でした。
この時、カルーセル麻紀さんをゲストにお招きしました。
また後で述べますが、今にして思うと、それまでGID研究会と疎遠だったプロフェッショナルなトランスジェンダー世界(ニューハーフ世界)との関係を修復するチャンスだったと思います。
しかし、残念ながら、そういう方向にはなりませんでした。

第8回(2006年)は福岡での開催で、初めて首都圏・関西圏(含む岡山)を離れました。
個人的なことですが、それまで「懇親会要員」だった私がこの回で初めて登壇しました。
「日本最初の『性転換手術』について」と題した報告で「日本最初の性転換手術は1998年の埼玉医科大学ではなく、1951年に日本医科大学で行われ、その直後に戸籍法113条による性別変更もなされています」と資料に基づき報告したときの会場のシラっとした雰囲気は忘れられません。
「ああ、ここでは都合が悪い歴史事実(「不都合な真実」)は受け入れられないのだ」と認識を新たにしました。

福岡開催以後、11回(2009年)長崎、12回(2010年)札幌、16回(2014年)沖縄、19回(2017年)再び札幌と、数年おきに地方巡業、失礼、地方開催が慣例になります。
GID医療の地方への展開という意味では、それなりの役割を果たしたと思います。
ただ、地域的な偏りがいまだに解消されていません。東北・北関東・信越の空白が埋められません。

私は、「特例法」施行後は、すっかり気合いが抜けてしまいGID学会を機会に、それまで行ったことがなかった地域を旅行するのが楽しみになりました。
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↑ 琉球王国の最高の聖地「斎場御嶽(せいふぁーうたき」です。
厳格な男子禁制の場所で、ここに入るときは琉球国王すら女装しなければならなかったという伝承があるトランスジェンダーにとってゆかりの場所です。
学会の前にタクシーを飛ばして行ってきました。たしか片道5000円近くかかりました。

そして、またタクシーで第16回GID学会(沖縄)に駆けつけました。
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話が前後してしまいましたが、第9回(2007年)の埼玉・所沢での開催の時、会の名称が「GID研究会」から「GID学会」へと変更になります。
ただ、正直なところ、ほとんど記憶がありません。
さしたる議論もなくすんなり決まったせいだと思います。
翌2008年に「性同一性障害特例法」の見直しを控えて、「学会」になることで、影響力を強めようという思惑だったような記憶があります。

逆に強く記憶に残っているのは、第13回(2011年)の東京・大崎での開催です。
当初の予定の8日前に東日本大震災が襲来して延期になり、3カ月後の6月にようやく開会されました。
福島原発事故の影響で東京の空間放射線量はまだ元に戻らず、電力不足の節電で東京中が薄暗かった中での開催でした。
今にして思うと、あの社会状況でよく開催できたと思います。
山口悟先生はじめナグモクリニックの先生方のご尽力には頭が下がる思いです。

その第13回で、私は初めてシンポジストとして登壇しました。
「DSM-5案の診断基準に見られるGID概念の将来」というシンポジウムで「性別を越えて生きることは『病』なのか?―最近の若者のGID意識について―」という報告をしました。
その中で「性別移行については、将来的に,精神疾患から外して身体疾患に位置づけた方が、辻褄が合うのではないか」という提案をしました。
今からすると、精神疾患か身体疾患かという二分法にとらわれ第3カテゴリーという発想がなくお恥ずかしい限りですが、質疑応答で、思いがけなく精神科医の阿部輝夫先生とgid.jp代表の山本蘭さんから賛同の意見をいただき、とても心強く、うれしかったことを覚えています。

そしてなにより印象深いのは、東優子さんが大会長をされた大阪府立大学での第17回(2015年)です。
大会テーマは「トランスジェンダーの健康と権利(Transgender Health and Rights)」。壇上高く掲げられた「トランスジェンダー」の文字を見て、ようやくこの時が来た!という思いで、ほんとうにうれしかったです。
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この17回大会で、私は「性別越境現象」というテーマで講演をさせていただきました。
「コンパ要員」から苦節17年でした(実際はたいした苦労もしていないのですが)。原科先生や東さんと出会い、性別移行の問題に関わりを持った1995年夏の横浜のシンポジウム「日本におけるトランスセクシャリズム」から数えたら23年が経っていました。
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講演を終えた後、もう満足、自分がやるべきことはやった、これでGID学会は卒業と思いました。
でも、次の第18回(2016年)は東京・神田で開催とのこと。まあ、地元だし、もう1年お付き合いするかなと思いました。
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↑ 講演後の私。満足した顔をしています。
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↑ 会場の外で「悪巧み」する人々。

その18回大会の直前の2月、悲しいことがありました。
前・理事長の大島俊之先生の逝去です。
大島先生とは「特例法」をめぐる論敵で、「お前に法律の何がわかるか!」と大声で叱られたこともありましたが、それ以上に楽しい思い出がたくさんありました。
前年17回大会の懇親会でお目にかかった時にかなり痩せられていたのが気になっていましたが、やはりショックでした。
このとき、私はバンコクに滞在中で、手術のためではありませんが。
ガーデンレストランで夕食を食べていたら一緒に旅行していた谷口洋幸さんの携帯電話に大島先生のお嬢さんから訃報が入り、谷口さんがすぐに私に伝えてくれました。
ご親族からなので確認するまでもなく、すぐに自分のブログとSNSにいち早く訃報と短い追悼の言葉をアップしました。
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18回大会の会場の入口に設けられた祭壇に手を合わせた時、私にとって、GID学会の一つの時代が終わった気がしました。

ところが、その18回大会で、次次年の大会長に針間克己先生が決まります。「GID学会創立20周年記念」はともかくとして「はりまメンタルクリニック開業10周年記念大会」ということになると、クリニックの第1号患者としては、お手伝いしないわけにはいきません。
そうなると、連続出席を途切れさせるわけにもいかず、札幌で開催された第19回(2017年)にも参加して、シンポジウム「ジェンダーの多様性をめぐる神話」で「GIDの『神話』を『歴史』に引き戻す」というお話しをいたしました。
そして、今ここに至るわけです。


さて、私なりにGID学会の歴史をたどってきましたが、いただいた時間も半分を過ぎました。
私が学んできた歴史学の社会的役割は、過去を省みることで、現在の立ち位置を知り、そこに立って未来の道筋を考えることにあります。
ここでも、GID学会の過去を振り返ることで問題点を指摘し、未来を考えるお話をしたいと思います。

過去の問題点の第一は、「性同一性障害」医療の立ち上げに際して、既存の性別越境者のカテゴリーと円満な関係を築けなかったことです。
具体的に言えば、商業的トランスジェンダーであるニューハーフ、あるいは大都市の盛り場を拠点にした女装コミュニティと連携することなく、むしろそうした人々を排除することで「性同一性障害」医療が立ち上げられてしまったことです。

その結果、差別の再生産を生んだだけでなく、既存のコミュニティが長年にわたって蓄積してきた様々な性別越境のノウハウに学び、受け継ぐことを困難にしてしまいました。
これは大きな損失だったと思います。

なぜ、そうなったのか? 理由は3つほど考えられると思います。
1つ目は、日本の「性同一性障害」医療がFtMの治療から始まったことです。20世紀のトランスジェンダー・コミュニティは、商業的・非商業的を問わず圧倒的にMtFによって構成されていました。
それに比べて商業的なFtM世界は小さく、非商業的なFtMのコミュニティはほとんど存在していませんでした。
そうした状況で、FtMの治療が始まった時、前に紹介した新宿のニューハーフ・パブのママのようにコミュニティのほとんどの人は「自分たちのこと」とは思わなかったのです。

また、埼玉医大で「性同一性障害」の治療としてのSRSが始まる以前から、ニューハーフ世界は独自のSRSルートを持っていたことも「他人事」感の原因でした。
たとえば、大阪の「わだ形成クリニック」(和田耕治院長1954年?~2007年)のSRS第1号は、はるな愛さんで,埼玉医大の3年前、1995年のことです。

2つ目は、初期の「性同一性障害」医療を担った先生方が、皆さん謹厳というか真面目な方ばかりで、ニューハーフや女装世界の実情をほとんどまったく知らなかったし、知ろうともしなかったということです。
もし、ニューハーフ・パブでホステスの太股に手を置きながらお酒を飲むのが大好きな先生が1人でもいらしたら、状況はずいぶん変わっていたと思います。
なにを馬鹿な話と思われるでしょうが、はるな愛さん始め大勢のニューハーフたちが和田先生に寄せた信頼と敬愛を知っているだけに、そんなことを考えてしまいます。

3つ目は、これが決定的だったわけですが、「ガイドライン」第一版の「職業的利得」条項(3、除外診断の第2項「職業的利得などのために別の性を求めるものでないこと」)によって、商業的トランスジェンダーであるニューハーフが実質的に「性同一性障害」医療から排除されたことです。
新宿のニューハーフ・パブのママの話に出てくる「ここはあなたたちのような人が来るところではありません」という門前払いが実際に行われました。
ニューハーフへの偏見に基づく明らかな職業差別です。
「原科先生の手が後ろに回らないよう(逮捕されないよう)にするためには必要なことだった」という言い訳もよく聞きますが、医療の場での職業差別はやっぱり駄目です。
「ヒポクラテスに恥ずかしくないのか」と言いたくなります。

なぜ、ニューハーフが職業的利得になるのか?ということについて、当時、こんな解説がされていました。
ニューハーフ・ショーの舞台で大勢がダンスをする場合、SRSを済ませると股間の膨らみがなくなり前列で踊れるて時給が高くなる。だから職業的利得になるから除外だ、と。

ガイドライン策定の頃、埼玉医大のSRS第1号になるFtMの方の後見人の立場の坂本愛子さんという方がいました。
1997年7月の学士会館でのシンポジウムでもMtFの当事者として登壇されています。
その後、カナダに移住されましたが、この方、実は仙台国分町のニューハーフクラブ「おまんじゅ姫」の大ママです。

職業的利得の説明を聞いたとき、坂本さんと私は顔を見合わせてしまいました。
ニューハーフは文字通り、男と女のハーフだから商業価値があるのです。わかりやすく言うと、女性的な顔立ち、膨らんだ乳房、そしてペニスを兼ね備えているからこそニューハーフなのです。SRSしてペニスがなくなってしまっては、商業価値は明らかに低下します。だからお店のママは「切りたい」というニューハーフをなんとかなだめすかして、できるだけ切らせないようにするのが腕の見せ所なのです。

つまり、まったく逆の話になっていたのです。
「いったいどうして、そんな話になったの?」というのが坂本さんと私の印象でした。
世間知らずの先生方に、ニューハーフ世界の実際とは異なることを入れ知恵した誰かがいたのです。
「犯人」の目星はついていますが、今さら責任を追及しても仕方がないので、時効ということで名前を挙げるのは止めておきましょう。

海外のトランスジェンダー組織では、セックスワーカーなど商業的なキャリアがある方が数多く参加し、そのノウハウを後から性別移行をしようとする人に伝えることは当たり前のことですが、残念ながら日本ではそういう形が作れませんでした。

先にも述べましたが、今にして思うと、カルーセル麻紀さんをゲストにお招きした第7回(2005年)が関係修復するチャンスだったと思います。
今年のお正月、そのときカルーセルさんに同行した京都祇園のシューパブ「カルシウムハウス」の梶子ママにお話をうかがう機会がありましたが、「違う世界だわ」と思ったそうです。性別を移行するというイメージが「まったく違った」とのことでした。
最初に掛け違ってしまったものを修復するのはやはり難しいことを実感しました。

それでも、懇親会の余興にニューハーフの方に出張してもらうとか、逆に懇親会の後のオプションでニューハーフのお店に行くとか、そんな形の交流はあってもいいと思うのです。
ニューハーフのすべてではありませんが、性別違和感をもっている方がかなりの数いるのは確かなのですから。

ところで、今日、この後のシンポジウムで登壇される畑野とまとさんは、長らくニューハーフ・セックスワークの世界で活躍されると同時に、1996年にインターネット上で「トランスジェンダー・カフェ」を立ち上げて、今に至るまで20年以上トランスジェンダーの人権・啓蒙活動に尽力されてきた方です。
ところが、とまとさん、今回がGID学会初参加なのです。
とまとさんほどの活動家とGID学会とがこれほど疎遠だったということは、どう考えてもおかしいし、損失であり不幸なことだと私は思います。

今後、GID学会をより積極的に開いていくことで、より多くの方と縁を結び、協力関係を作っていくことを望みたいです。
たとえば、GID特例法の改訂を議論しようにも、大島先生亡き後、学会の理事に法学者がいません。
社会学者も鶴田幸恵さんだけです。
これだけ教育について議論を重ねながら、理事に教育の専門家がいません。
外部から人材をお招きする、あるいは、内部から教育実践で大きな成果をあげている土肥いつきさんのような方を理事に登用すべきだと思います。

問題点の第二は、性別越境の脱病理化をめぐる世界の動向にあまりにも無関心・鈍感だったということです。
1990年のICD-10で同性愛の脱病理化が達成された後、欧米、そしてアジアのトランスジェンダー活動家は性別移行の脱病理化、少なくとも脱精神疾患化を目指しました。
その動きは2013年(当初の予定では2011年)のDSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)の改訂に向けて高まっていきました。
DSM-5では残念ながら脱精神疾患化すら達成できませんでしたが、「Gender identity Disorder(GID)」という病名を消すことには成功しました。

次の焦点は2015年に予定されていたICD(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)の大改訂です。
その議論の中で、性別移行の脱精神疾患化、GIDというカテゴリーの完全消滅、新設される「conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」の章に「gender incongruence(性別不合?)」という病名が置かれることなど、一定の方向性は、2014年の段階で見えていたと思います。

では、GID学会はそうした性別移行の医療の根幹に関わる大変化にどう取り組んできたでしょうか?

DSM改訂問題では、2011年の第13回にシンポジウムが設けられました。しかし、翌年にはプログラムがなく、発効年の2013年の第15回にシンポジウムがあります。まあまあでしょうか。

ICDの改訂については、2017年に「用語をめぐる諸問題」のシンポジウムで針間先生が論じていますが、そのものズバリのシンポジウムは発効年である2018年、つまり今回が初めてです。
ちょっと信じられません。
国際学会であれほど多くの真摯な議論が交わされているのに。

GID学会はいちばん大事なことに目をつむってきた、避けて通ってきた、あるいは何が大事かを間違ってきた、そんな印象をもってしまいます。
「待ちの姿勢」と言えば聞こえはいいですが、明らかに対応が遅いと思います。

その結果、今年5月、あと2カ月後に採択予定のICD-11における脱精神疾患化に対応する準備ができているとは言いがたいと思いますし、なにより、消滅確実な疾患名を学会名として漫然と名乗り続け、学会名をどう変更するのかの具体的な議論すらなされていません。

国際感覚の欠落は、2014年5月30日に発表されたWHOなど国連諸機関WHOの「法的な性別の変更に手術を要件とすることは身体の完全性・自己決定の自由・人間の尊厳に反する人権侵害とする共同声明」への対応にも表われています。

この共同声明は、法的な性別の変更に手術を要件とすることは、トランスジェンダーへの人権侵害であるとしています。共同声明の発表後、欧米諸国の関係学会が続々と対応する中、日本では3年間も放置してきました。
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↑ 『朝日新聞』2014年7月4日の高垣雅緒先生の「私の視点」。
共同声明発表の1カ月後には、こうした記事が出ているわけで、「知らなかった」とは言えません。

ようやく昨年の第19回札幌大会の理事会で共同声明への支持を決定したと思ったら、議長の独断で、総会での承認を見送り、事実上、握りつぶしたことは、はっきり申し上げれば見識を疑うものがありました。
人間の身体と命を預かる医師を育成する医学部の先生が、身体に関わる人権問題に鈍感で、いったいどうするのですか。

そもそも、日本では、2000年代になっても、世界の趨勢と逆行し、性別移行の病理化が徹底的に進められ、その結果、世界的に見てきわめて特異な「性同一性障害大国」が現出してしまいました。
疾患名である「性同一性障害」をアイデンティティとして名乗る「性同一性障害者」がこれほどたくさんいるのは、世界の中で日本だけです。
その特異性、欧米の関係者に言わせれば、「Unbelievable!」な異様な状況に多くの方が気づいていない、気づかないふりをしてきたことに根本的な問題があるのです。

ともかく、あと2カ月後にICD-11が原案通りに採択されれば、「性同一性障害」が消え、性別移行を望むことの脱精神疾患化が達成されます。
その後、日本の性別移行医療をどう再構築していくかが、今後、数年間の喫緊(きっきん)の課題となります。

「何も変えない」「実質、何も変わらない」ことは許されません。
たとえば、精神疾患でなくなったのに、日本精神神経学会がガイドラインを作り続けるような形態は、どう考えても、おかしいわけです。
ガイドラインはWPATH(World Professional Association for Transgender Health)のSOC7(Standards of Care)に準拠して、専門の学会、つまりGID学会が作るのが筋だと思います。

なぜICD-11が脱精神疾患化を採択するのか、その意味、その精神をしっかり踏まえた改革が必要です。
それを怠れば、日本は国連諸機関や世界のトランスジェンダーから厳しい批判を浴びることになるでしょう。

そうならないためにも、2007年3月国際連合人権理事会で承認された「性的指向並びに性同一性に関連した国際人権法の適用上のジョグジャカルタ原則」に記されたトランスジェンダーの人権を踏まえ、より広い視野でトランスジェンダーの健康と福祉を増進するような医療システムをできるだけ速やかに構築することが望まれます。
諸先生方のご尽力を切にお願いしたいと思います。

さて、残り時間もわずかになりました。
ICD-11が予定通り採択・発効されれば、同性愛に遅れること28年にして性別越境の脱精神疾患化が達成され、性別越境者は、19世紀以来、長い年月、精神疾患の名のもとに抑圧されてきた状態から、ようやく解放されることになります。

性同一性障害という病名は過去のものとなり、性別を越えて生きることを病とする考え方が主流になることは、もう二度とないでしょうし、あってはなりません。

長年、病理化と闘ってきた世界の多くのトランスジェンダーが待ち望んでいた時がいよいよ間近になってきました。

精神疾患という軛(くびき)が外れることで、自己選択・自己決定に基づくより自由な性別移行が実現することになるでしょう。そして、医療がそれをサポートし、性別移行を望む当事者が必要とする医療サービスを提供する形になっていくべきです。
諸先生方のさらなるご尽力を切にお願いしたいと思います。

少なくとも2003年以来、トランスジェンダーの立場で一貫して性別を越えて生きることは病ではないと主張し、「性同一性障害」概念による性別移行の病理化に抵抗してきた私としては、長い闘いの末に、ようやく勝利の日が近づいてきた思いです。

こうして振り返りますと、トランスジェンダーとしての私は、ある意味、GID学会に鍛えていただき、育てていただいたのだと思います。
最後のGID学会、まさか国際的に消滅した疾患名を来年も名乗り続けるような恥ずかしいことなさらないと思いますので、GID学会としては最後の大会に、お話させていただきましたこと、ありがたくうれしく、針間先生はじめ皆様に心から御礼申し上げます。
42歳から62歳、「女」の20年は短いようで長く、長いようで短かったです。
ほんとうに長い間、お世話になり、ありがとうございました。

と、壇上中央に進み出て、静かにマイクを置いて去ろうと思ったのですが、よく考えたら、まだ明日のシンポジウム5の座長のお役目が残っていました。

ということで、ご静聴ありがとうございました。

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