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10月15日(土)鳥尾多江『私の足音が聞こえるーマダム鳥尾の回想ー』を読む [読書]

10月15日(土)

持病の坐骨神経痛に加えて、疲労性の筋肉痛で、立ち居が苦痛なので、一日、自宅で静養。

鳥尾多江『私の足音が聞こえるーマダム鳥尾の回想ー』(文藝春秋、1985年)を読む。
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鳥尾多江(下條鶴代、1912~1991年)は、明治45年5月、三井物産社員・下條(げじょう)小四郎の娘として、東京市麹町区(現:東京都千代田区)に生まれる。
日本画家で貴族院議員だった祖父下條桂谷に溺愛されて育ち、平民でありながら女子学習院に入学。
1932年(昭和7)20歳で子爵・鳥尾敬光(のりみつ、1910~1949年)と結婚、後に一男一女を生む。

1946年(昭和21)、34歳の時、GHQ民政局次長チャールズ・ケーディス中佐(1906~ 1996年)と知り合い、恋に落ちる。
その関係は、1948年にケーディスが帰国するまで続いた。
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1949年、夫敬光が亡くなると、、1950年頃から昭和電工社長森清(1915~1968年、後に衆議院議員、総理府総務長官)と恋に落ち1968年6月に森清が逝去するまで、愛人関係にあった。
その間、1953年、銀座でバー「鳥尾夫人」を開くが、2年8か月で閉店。

こんな略歴の人で、明治末年生まれの上流階級の女性にしては稀な自由を愛し自己に忠実の生きた人。
自伝を読むと、自立心の強さと旺盛なバイタリティ(生活力)が実に印象的だ。

マッカーサー司令官の懐刀として辣腕をふるったケーディス民政局次長との愛情関係も、策謀や打算からではなく、彼女の「恋愛体質」から始まったことだと思う。

戦後、GHQの高級将校の接待に、「国策」として英語がしゃべれて社交に慣れた日本の華族・上流階層の女性が当たったことは知っていた。
1946年2月、幣原喜重郎内閣の書記官長楢橋渡(1902~1973年)の強い要請で、彼女と鍋島子爵夫人しげ子が初めてGHQの高級将校を招くパーティ(麻布・楢橋邸)に出席する場面(そこでケーディスと出会う)の記述は、詳細でリアリティがあり印象的。

同時に、多くの国民が飢餓線上の苦しみにあった時、上流階層はこんなことをしていたのかと驚いてしまう。
亡父が「あの頃、GHQとコネがある人とない人とでは天と地の違い」と語っていたことが思い出された。



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真樹猫ちゃん

中央省庁の役人は、空襲下でも毎日宴会。飲み過ぎで疲れるから、毎日では無くて一日おきにしようとなったという話を某侍従が随筆に書いていみゃした。3月9日の夜も飲み過ぎでヘロヘロなところに大空襲で、宮城(皇居)内をウロウロしている内に夜が明けたって。

阿川弘之の「あひる飛びなさい」に出てくる、観光バス業からホテル経営に乗り出す実業家のエピにも、コネで進駐軍からガソリン貰い放題というのが出てきみゃすにゃ。
by 真樹猫ちゃん (2016-10-16 14:36) 

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