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写真家・石川武志さんと会食 ーヒジュラについてー [現代の性(性別越境・性別移行)]

6月7日(火)
(続き)
18時半、新宿「紀伊国屋書店」前で写真家の石川武志さんと待ち合わせ。
「三越裏」(←死語)の新宿における天婦羅の老舗(大正13年創業)「つな八総本店」へ。
(石川さんのお知り合いの鈴木葉子さんも同席)
「天麩羅膳」(2484円)を注文。
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↑ 海老(2)、きす、茄子
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↑ 穴子
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↑ 小海老かき揚げでミニ天丼。

生ビールを飲み、天麩羅を食べながら、「インドを撮って40年」の石川さんに、最近の成果をうかがう。
いろいろうかがった内から2つをメモ。

(1)「ヒジュラ」文化とトランスジェンダーの出現
インド社会における伝統的なサード・ジェンダー(ヒジュラたちの自己主張は「両性具有者」、実態は男性が完全去勢し、ジェンダー表現などを女性に接近させた人々)であるヒジュラの文化は、21世紀になりインターネットの普及で情報の取得が容易になるにつれて、かなり揺らいで来ている。
たとえば、従来はヒジュラ集団の中で「去勢技術者」が手術(陰茎・睾丸切除術=スパッと切るだけ)をしていた。
「女性になりたい」と思う男性は、ヒジュラの集団に入り、グル(親分)の許可を得て、その手術を受けるしか方法がなかった(情報と経路の独占)。
ところが、インターネットによって、タイなどに、もっときれいに、上手に、さらには造膣までしてくれる病院があることを知ることができるようになると、ヒジュラ集団による情報と経路の独占が崩れ、「女性になりたい」と思う男性で、そうした情報を知ることができる人は、なにもヒジュラ集団に入る必要がなくなり、自分でお金を貯めて外国の病院で手術すれば良いことになる。

さらに、ヒジュラは理念的に「男でもあり女でもある」存在であり、男でも女でもない「ヒジュラ」という性であることに、アイデンティティがある。
だから「サード・ジェンダー」なのだ。

ところが、新しい知識として、男性から女性に移行する「(MtFの)トランスジェンダー」の存在が知られるようになると、「ヒジュラになりたい」わけではなく「女性になりたい」と思う男性は「ヒジュラ」アイデンティティではなく、「トランスジェンダー」アイデンティティに親和性を感じる人のは、ある意味、必然である。

つまり、現代のインド社会では、伝統的な「ヒジュラ」文化を受け継ぐ人たちと、欧米的な「トランスジェンダー」にアイデンティファイする人の両方が存在する状況になりつつある。
石川さんの感覚では、両者の比率は10年ほど前は100対1くらいだったのが、現在は100対10ぐらいの感じで、トランスジェンダーが増えてはいるが、全体としてはまだまだヒジュラが優勢らしい。

こうした現象は、1990年代後半から2000年代前半の日本の状況と、ある部分で似ている。
「ヒジュラ」を「ニューハーフ」に、「トランスジェンダー」を「性同一性障害に」置き代えると、かなり重なるように思う。

その頃の日本で、それまでのニューハーフ業界による女性ホルモン投与の情報(どこに行けば注射してもらえるか)独占が崩れ、ニューハーフ世界に入らなくても、「女になれる」ようになった。
そして、「私はニュ―ハーフになりたいのではなく、女になりたいのです!」という人が増えていった。
日本が、世界的に見て「異常」だったのは、そこに「性同一性障害」という病理化が深く入りこんでしまったことだが、それを除けば、現在のインドで進行していることは、1990年代後半から2000年代前半の日本で起こったことと、とてもよく似ている。

それは、「性のグローバリゼーション(世界≒欧米標準化)」の一環としての「性別移行のグローバリゼーション」として位置づけることができ、日本とインドで、約10~15年ほどのタイムラグがあるということだろう。

ただ、インドで出現しつつあるトランスジェンダー(Trans-woman)の大きな問題は、就労の受け皿がほとんどないこと。
祝祭芸能やセックスワークなど伝統的な職域はヒジュラがしっかり握っているし、近代的な職域の多くは男性の世界で、生得的な女性ですら就労は難しく、Trans-womanが入っていける余地は極めて少ない。
たとえば、女性衣料を売るブティックの店員ですら、インドでは男性であることが多い。

日本でも、1990年代後半から2000年代前半の段階では、Trans-womanの就労の道は、伝統的な「ニューハーフ三業種」(ホステス、ダンサー、セックスワーカー)以外は、きわめて乏しかった。
ただ、日本の場合、生得的な女性が、既にいろいろな職種を切り開いていて、Trans-womanはそのお蔭を被ることができた。
たとえば、私が2000年に大学教員になれたのも、すでに女性の大学教員がいたからこそ可能だった。

逆に言えば、男尊女卑的で女性の社会進出が困難な社会では、Trans-womanの社会進出はいっそう困難を極めるということだ。
今後も、インドのトランスジェンダーの人たちの動向に注目していきたい。

(2)「サドゥー」の「ヒジュラ」
インドには「サドゥー」というヒンドゥー教の修行者がいて、聖者としてあがめられている。
「インドを撮って40年」の石川さんにとって「サドゥー」と「ヒジュラ」は二大テーマなのだが、今回、初めて「サドゥーとヒジュラ」ではなく「サドゥーのヒジュラ」に出会ったという話。
3年毎にガンジス河畔の聖地で、インド中から「サドゥー」が集まる「クンブ・メーラ」という大集会が開かれ、たくさんのテントが立ち並ぶ。

その中に「サドゥーのヒジュラ」が少なくとも2人いた。
「サドゥー」は、額に「サドゥー」の宗派を示す特有のマークを描いているが、その「ヒジュラ」の額にはちゃんと「サドゥー」のマークがあり、だから間違いなく「サドゥーのヒジュラ」なのだ。

「サドゥーのヒジュラ」のブースがあるテントには、大勢の庶民女性たちが行列している。
女性たちは順番が来ると、100~300ルピーのお布施を「サドゥーのヒジュラ」に渡たす。
それとは別に低額の紙幣を差しだす。
「サドゥーのヒジュラ」はその低額紙幣の端を噛んで、女性に戻す。
そうして「サドゥーのヒジュラ」の聖性が付与された紙幣が「お守り」(効能は「子授け」など)になる。

もう1人の「サドゥーのヒジュラ」は、もっと高級で、占ってもらいに来る人々は政治家を含む富裕層が中心で、お布施もきわめて高額とのこと。
日本人に例えると、美輪明宏先生と細木数子先生が合体したような感じらしい。

ところで、私は、「双性(ダブル・ジェンダー)は神性に近づく」という「双性原理」と、「神はしばしば異形である」という「異形原理」を唱えている。
「ヒジュラ」はまさに「双性原理」の典型であり、「サドゥ―」はかなり異形である。
そして、私は「双性原理」と「異形原理」を合体させて、「双性的かつ異形性のある者が、もっとも神性をもち「神」に近い=最強である」という仮説を立てている。

「サドゥーのヒジュラ」は、その仮説を実証する存在なのかもしれない(手前味噌)。

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コメント 2

hiro

大変興味深く読み応えのある内容でした。
何らかの書籍に収めるべき内容だと思います。
by hiro (2016-06-08 22:18) 

三橋順子

hiroさん、いらっしゃいま~せ。

ありがとうございます。
いつかまた「双性原理」についてまとめるときに、石川さんからうかがったお話を組み込もうと思っています。
by 三橋順子 (2016-06-12 02:06) 

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