今、学生が求めるファッション論は何か? [お仕事(執筆・成果)]
3月4日(金)
ファッションを社会学的に論じようという論集に、依頼されて「装いとセクシュアリティ」という論考を、昨年夏、執筆した。
今日、編集者&編者からメールが来て、全体の3分の1に相当する第1章「全裸はエロか? ―隠すこと・露わすこと―」は削除(没)とのこと。
理由は、裸を論じるのは「ファッションの社会学」をテーマとする本書の趣旨に合わない、大学の教科書として難解すぎる(ふさわしくない)。
裸体と着衣について論じることがファッション論から外れるってどういう理屈だ?
むしろ、それこそファッション論の基礎ではないか。
実際、同じ内容で関東学院大学の「セクシュアリティ論」を講義したところ、学生の反応はとても良かった。
編集者&編者が教科書採用先として想定している大学って、関東学院大よりレベルが低いのか?
教科書にふさわしいお上品なセクシュアリティ論がお望みだったら、私なんかに執筆依頼するなよ!
拙稿、従来のファッション論の枠組から少し外れるのは承知で、今時の大学生に興味をもってもらえるような身近な問題を設定しながら書いた。
なぜなら、大学の講義で学生とちゃんと向き合っていれば、現代の学生たちがどういうテーマを期待しているか、伝わってくる。
それは他人事ではなく、自分のこと、身近なこととして考えることができるテーマだと思う。
しかし、どうもそこらへんの感覚が、編者の「偉い」先生たちには乏しいようだ。
編者&編集者のイメージは、学生が興味を持つような斬新でおもしろい教科書ではなく、もっとオーソドックスで「学問的」で無難なものを求めていたようだ。
その点、少なからずがっかりした。
編者&編集者の意向に応じて大幅改稿するか、それとも執筆辞退するか、少し考えようと思う。
【考えてみた】
自分が間違っているとは思わないけど、「見ているもの」が違う編集者や編者の「先生」とやり合うのは疲れる。
もうそんな気力もないし、自分に残されている時間を考えると、時間の無駄だと思ってしまう。
と言って、意に沿わない改稿作業は、心身への負荷が大きい。
この年齢になると、ストレスを減らすことは、少しでも健康を保つ上で重要だ。
何万円かの印税収入はフイになるが、それより健康の方が大事だろう。
身を削る思いで書いた原稿が日の目を見ないのは残念だが、原稿を取り下げて、執筆を辞退した方が良さそうだ。
【さらに考えてみた】
今回の件で、大学という場で「エロ」を学問化することの困難を痛感。
私としては「セクシュアリティ論」を語る上で「エロチズム」を分析することは当然だと思うのだが、そういう内容に強い抵抗感をもち「大学はそんな不真面目なことを語る場ではない」と考える教員は数多い。
また、大学で「エロ」を含む教科書を採用すると「セクシュアル・ハラスメントで訴えられ、私立大学では経営に直結するスキャンダルになる可能性がある」との指摘を私立大学の先生からいただいた。
だから大学では「性」を学問化して論じることを隠蔽・回避し、その結果、性被害に遭ったり望まない妊娠をしてしまう女子学生や、無知ゆえに性暴力の加害者になる男子学生が出てくるわけで、なるほど、すばらしい教育システムだと思う。
もちろん困難な状況の中でご尽力されている先生がいることはよく分かっている。
現実を直視していれば、学生の「性」に向き合わざる得ないのは、当然のことだから。
ただ、講義の内容がセクシュアル・ハラスメント告発された場合、非常勤講師は「腹を切れば」済むことだが、常勤の先生方はそれだけでは済まないので、いろいろ大変なことはわかっているつもり。
ちなみに、私もシラバスで「講義の中でセクシュアリティ(性愛行為)に直接関わる用語・事象が語られること、あるいはセクシュアリティや身体変工を描写した画像(絵画)を教材とすること」を明示している。
しかし、だからといって、大学の講義から「エロ」を排除することが正しい方策だとは、私には思えない。
正直、やってられない気持ちになる。
ファッションを社会学的に論じようという論集に、依頼されて「装いとセクシュアリティ」という論考を、昨年夏、執筆した。
今日、編集者&編者からメールが来て、全体の3分の1に相当する第1章「全裸はエロか? ―隠すこと・露わすこと―」は削除(没)とのこと。
理由は、裸を論じるのは「ファッションの社会学」をテーマとする本書の趣旨に合わない、大学の教科書として難解すぎる(ふさわしくない)。
裸体と着衣について論じることがファッション論から外れるってどういう理屈だ?
むしろ、それこそファッション論の基礎ではないか。
実際、同じ内容で関東学院大学の「セクシュアリティ論」を講義したところ、学生の反応はとても良かった。
編集者&編者が教科書採用先として想定している大学って、関東学院大よりレベルが低いのか?
教科書にふさわしいお上品なセクシュアリティ論がお望みだったら、私なんかに執筆依頼するなよ!
拙稿、従来のファッション論の枠組から少し外れるのは承知で、今時の大学生に興味をもってもらえるような身近な問題を設定しながら書いた。
なぜなら、大学の講義で学生とちゃんと向き合っていれば、現代の学生たちがどういうテーマを期待しているか、伝わってくる。
それは他人事ではなく、自分のこと、身近なこととして考えることができるテーマだと思う。
しかし、どうもそこらへんの感覚が、編者の「偉い」先生たちには乏しいようだ。
編者&編集者のイメージは、学生が興味を持つような斬新でおもしろい教科書ではなく、もっとオーソドックスで「学問的」で無難なものを求めていたようだ。
その点、少なからずがっかりした。
編者&編集者の意向に応じて大幅改稿するか、それとも執筆辞退するか、少し考えようと思う。
【考えてみた】
自分が間違っているとは思わないけど、「見ているもの」が違う編集者や編者の「先生」とやり合うのは疲れる。
もうそんな気力もないし、自分に残されている時間を考えると、時間の無駄だと思ってしまう。
と言って、意に沿わない改稿作業は、心身への負荷が大きい。
この年齢になると、ストレスを減らすことは、少しでも健康を保つ上で重要だ。
何万円かの印税収入はフイになるが、それより健康の方が大事だろう。
身を削る思いで書いた原稿が日の目を見ないのは残念だが、原稿を取り下げて、執筆を辞退した方が良さそうだ。
【さらに考えてみた】
今回の件で、大学という場で「エロ」を学問化することの困難を痛感。
私としては「セクシュアリティ論」を語る上で「エロチズム」を分析することは当然だと思うのだが、そういう内容に強い抵抗感をもち「大学はそんな不真面目なことを語る場ではない」と考える教員は数多い。
また、大学で「エロ」を含む教科書を採用すると「セクシュアル・ハラスメントで訴えられ、私立大学では経営に直結するスキャンダルになる可能性がある」との指摘を私立大学の先生からいただいた。
だから大学では「性」を学問化して論じることを隠蔽・回避し、その結果、性被害に遭ったり望まない妊娠をしてしまう女子学生や、無知ゆえに性暴力の加害者になる男子学生が出てくるわけで、なるほど、すばらしい教育システムだと思う。
もちろん困難な状況の中でご尽力されている先生がいることはよく分かっている。
現実を直視していれば、学生の「性」に向き合わざる得ないのは、当然のことだから。
ただ、講義の内容がセクシュアル・ハラスメント告発された場合、非常勤講師は「腹を切れば」済むことだが、常勤の先生方はそれだけでは済まないので、いろいろ大変なことはわかっているつもり。
ちなみに、私もシラバスで「講義の中でセクシュアリティ(性愛行為)に直接関わる用語・事象が語られること、あるいはセクシュアリティや身体変工を描写した画像(絵画)を教材とすること」を明示している。
しかし、だからといって、大学の講義から「エロ」を排除することが正しい方策だとは、私には思えない。
正直、やってられない気持ちになる。
2016-03-04 22:40
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コメント(2)
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発行者側が謝罪し、直ちに出版すべきです。裸を論ぜずして、ファッションを語ってきたからこそ、これまでのファッション論がつまらないものになっていたのはあきらかです。
頑張って出版にこぎつきましょう。
by 川上善郎 (2016-03-05 00:19)
川上善郎さん、いらっしゃいま~せ。
>裸を論ぜずして、ファッションを語ってきたからこそ、これまでのファッション論がつまらないものになっていた
まさに我が意を得たご指摘で、その通りだと思います。
ただ、自分に残されている時間を考えると、価値観が違う編者&編集者とやり取りを続けてストレスを重ねるよりも、自分が書きたい原稿を書く方が建設的であり、心身の健康も保てると考え、先ほど原稿を取り下げ執筆を辞退する旨のメールを編集者に送りました。
心理的に辛い時に、コメントをいただき励みになりました。
ありがとうございました。
by 三橋順子 (2016-03-05 16:27)