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京成電鉄・旧「寛永寺坂駅」の遺構 [日常(子供・鉄道)]

2月9日(火)

京成本線に「寛永寺坂」という駅があったのは知っていたが、遺構が残っているとは知らなかった。
「鉄ちゃん」たちの間では周知だったようで、ネットで調べたら、たくさん記事や写真が出てきた。
寛永寺坂駅6.jpg
↑ 駅舎の遺構(現況)
寛永寺坂駅3.jpg
↑ 駅舎(1933年の開業当時)
寛永寺坂駅5.jpg
↑ 駅舎(1935年頃)
寛永寺坂駅.jpg
↑ 上野線開通の案内
寛永寺坂駅2.jpg
↑ 線路図
「上野のお山の隠された歴史」
http://uenojp.web.fc2.com/keisei1.html

駅舎は、その時代(1933年)に流行ったシンプルなアールデコ様式に見える。
昭和戦前期の産業遺産として、ぜひ保存・整備してほしい。

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旧寛永寺坂駅
63年前廃止の駅現存 京成電鉄・日暮里−上野間、昨年まで倉庫

東京・上野と成田空港を結ぶ京成電鉄(本社・千葉県市川市)の63年前に廃止された地下駅の駅舎や階段が当時のまま残されていることが分かった。毎日新聞の取材を同社が特別に許可し、“タイムカプセル”が開いた。私企業の産業遺構は経済状況の変化で姿を消すのが一般的なため、奇跡的な事例だ。

遺構が確認されたのは東京都台東区の旧・寛永寺坂駅。1933(昭和8)年12月に日暮里−上野公園(現・京成上野)間2・1キロの開通に合わせ、地下区間に開業した。45年6月に日暮里−上野公園間は運輸省(当時)が強制運休とし、施設は国の管理下に。寛永寺坂駅の上りホームはネジの軍需工場となり、下り線には鉄道省の客車が引き込まれた。鉄道車両を空襲から守るための防空壕(ごう)になった可能性がある。

敗戦後の46年に同駅は営業を再開したが、47年8月に再び休止。53年2月に廃止された。同年4月、京成は駅舎を倉庫会社に賃貸した。

昨年末、倉庫会社が退去して施設が同社に戻った。地上部の木造平屋の駅舎が現存し、事務室や切符売り場が残る。15段の階段を下りると連絡通路に至り、上下線ホームへ下りる29段の階段が2カ所ある。上野へ、成田へと急ぐ電車のごう音がわき上がってくる。

同社内では寛永寺坂駅の歴史は長く忘れられていたという。今後、公開の予定はなく、活用方法も未定だ。【鶴谷真】

『毎日新聞』2016年2月8日 東京夕刊
http://mainichi.jp/articles/20160208/dde/041/040/016000c#cxrecs_s


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