SSブログ

渋谷・道玄坂「三角地帯」の変遷 [性社会史研究(一般)]

11月8日(日)

1963年、東京オリンピック直前の頃の渋谷・宇田川町~道玄坂下付近(1枚目)
道玄坂下(1963)(2).jpg
井ノ頭通りの入口の「西武デパート・渋谷店」(1968年4月開店)はまだない。
渋谷駅に近いA館の場所は「渋谷ニュー東映」と「渋谷松竹・銀星座」の2つの映画館の敷地で、井ノ頭通りを挟んで北側のB館の場所は、やはり映画館で「渋谷国際劇場」だった。
なので、当時、この通りを「国際通り」と呼んでいた。

また、現在もB館1階には「三井住友銀行・渋谷支店」が入っているが、これはもともとこの位置に「三井銀行」あったから。

図の外になっているが、公園通りの「パルコ渋谷」(1973年6月開店)は大きな空き地だった。
「東急ハンズ」(1978年開店)の場所は、なんと「聖パウロ教会」だった。

さて、今の関心は、「文化村通り(栄通り)」と「道玄坂」が作る道玄坂下の「三角地帯」である。
ちなみに、この場所を「三角地帯」と呼ぶのは、映画「恋文」(田中絹代監督、新東宝、1953年)に出てくるそうなので、かなり古い。

拡大してみよう。
道玄坂下(1963)(4).jpg
まだ、ビル化してなく、入り組んだ細い路地に店名が読み取れないほど小さな店舗が密集している。
典型的な「ヤミ市」起源の商業地の形態だ。

ただ、「三角地帯」の北寄りに大きな空白がある。
ここは、1963年8月に「長谷川スカイラインビル」(現:「ヤマダ電機・渋谷店」)が建つ場所。
実はこのビル建設で立ち退きになった場所に「恋文横丁」(道玄坂百貨街)があった。
渋谷・恋文横丁1.jpg
渋谷・恋文横丁5(2).jpg
「恋文横丁」は、1950年代、この路地に、朝鮮戦争に出兵したアメリカ軍兵士に宛の手紙(恋文)を日本人女性に代わって英語で代筆する「代書屋」があり、それが映画「恋文」で有名になって名付けられた。
渋谷・恋文横丁8.jpg
ロマンティックな名前だが、実際には、餃子屋がやたらと多い路地だった(東京における餃子の起源地)。

1960年代後半(要調査)に「三角地帯」の中央から南側にかけて「緑屋ビル」(現:ザ・プライムビル)が建設される。
道玄坂下(1970)(3).jpg
↑ 1970年刊行の住宅地図。

さらに、1970年代の末に「三角地帯」の東部に「東急109」(1979年4月開店)が入る「道玄坂共同ビル」が建設される。
先端部にあったかなり大きな路地を潰していることがわかる。
道玄坂下(1979)(3).jpg
↑ 1979年の住宅地図。

こうして「三角地帯」の「闇市」起源の景観はまったく失われ、「三角地帯」の再開発がほぼ完成した。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0