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永井荷風『断腸亭日乗』の大正10年(1921)12月8日の地震 [地震・火山・地質]

9月13日(土)
永井荷風(1879~1959年)の『摘録 断腸亭日乗』(岩波文庫、1987年)を読んでいたら、大正10年(1921)12月の条に、こんな記事があるのが目に留まった。

「十二月十一日。水道水切となる。八日夜地震のため水道浄溜池破壊せし故なりと云ふ。東京市の水道工事は設置の当初より不正の事あり。即浜野某等の鉄管事件なり。今日わづかなる地震にて水切れとなるが如きは敢て怪しむに足らず。夜十一時に至るも水猶なし。
十二月十二日。水道僅に通ず。痳疾患者の尿の如し。呵々。」

「水切」つまり断水の記事で、原因は12月8日の地震で東京市の水道の「浄溜池」が破壊されたためらしい。
断水は11日夜になっても回復せず、12日になって、やっとチョロチョロ水が出る状態になったようだ。
淋病の男性の尿(=痛いのでちょっとずつしか出ない)に譬えているのがおもしろい。

地震史の勉強をしていながら、うかつにもこの地震は知らなかった。
『摘録 断腸亭日乗』は、8日の記事を省略しているので、元本(断腸亭日記巻之五大正十年歳次辛酉)を調べると、こうあった。
「十二月八日。初更入浴中地激しく震ふ。棚の物器顛倒して落ち時計の針停りたり。」
夜のまだ浅い頃、荷風が入浴していると、激しい地震があり、棚の物が落下し、(振り子?)時計の針が止まったという。
震度4~震度5弱という感じだろうか。
当時の荷風の住居は麻布区市兵衛町(現:港区六本木1丁目)の「偏奇館」であり台地上で地盤は良かった。
それでこの揺れ方であり、かなり大きな地震だったことがわかる。

この地震と断水については、荷風と同時代人の科学者の寺田寅彦(1878~1935年)に「断水の日」という随筆があり、詳しい様子がわかる(『寺田寅彦随筆集 第一巻』、岩波文庫、1947年2月)。
「十二月八日の晩にかなり強い地震があった。それは私が東京に住まうようになって以来覚えないくらい強いものであった。振動週期の短い主要動の始めの部分に次いでやって来る緩慢な波動が明らかにからだに感ぜられるのでも、この地震があまり小さなものではないと思われた。このくらいのならあとから来る余震が相当に頻繁に感じられるだろうと思っていると、はたしてかなり鮮明なのが相次いでやって来た。
山の手の、地盤の固いこのへんの平家(ひらや)でこれくらいだから、神田へんの地盤の弱い所では壁がこぼれるくらいの所はあったかもしれないというような事を話しながら寝てしまった。
翌朝の新聞で見ると実際下町ではひさしの瓦かわらが落ちた家もあったくらいでまず明治二十八年来の地震だという事であった。そしてその日の夕刊に淀橋近くの水道の溝渠(こうきょが)くずれて付近が洪水のようになり、そのために東京全市が断水に会う恐れがあるので、今大急ぎで応急工事をやっているという記事が出た。」

さすがは、科学者、初期微動(P波)と主振動(S波)の感じから、地震の規模をが小さくないことを推測している。
そして、地盤の強度による揺れと被害の違いに思いを巡らせている。
実際、下町の揺れは震度5強相当で、軽微だが被害が出ている。

断水は、淀橋浄水場(現:新宿区の超高層ビル街)近くの水道の水路(明治31年=1898に竣工した「玉川上水新水路」)の一部が崩落して塞がり、その復旧作業のために配水を止めたためと思われる。

また寺田が言う「明治二十八年」の地震とは、おそらく明治27年(1894)年6月20日に起こった「明治東京地震」のことと思われる。
この地震は、東京湾北部を震源とする推定M7.0の都市直下型地震だった。
下町の本所区・深川区では震度6の揺れで、東京湾岸を中心に建物の全半壊 130棟(東京府 90棟、神奈川県 40棟)、死者 31人(東京市 24人、横浜市 4人、橘樹郡 3人)、負傷者157人を出した。
それ以来、27年ぶりの大揺れだったということ。

『断腸亭日乗』には「十二月十七日。天気暖なり。人々地震を虞る。」とあるので、寺田寅彦が言うように8日の本震の後、余震が続いたものと思われる。

さて、この地震だが、一般的には「龍ヶ崎地震」と呼ばれている。
茨城県西部、千葉県北西部、埼玉県東部、栃木県南部で震度5強を観測している。
震源やマグニチュードについては諸説があり、はっきりしない部分もあるが、震源は土浦市南西部、深さ53km、M7.0とする説が有力だ。
http://kojishin.iinaa.net/19211208.html
この地震が注目されるのは、東京中心部に小規模な被害を与えたということではなく、2年後の大正12年(1923)9月1日の「大正南関東大地震」の広い意味での前震と考えられるからだ。

もう少し狭い意味での「大正南関東大地震の前震」としては、1年4カ月ほど前の大正11年(1922)4月26日に起こった東京湾浦賀水道付近を震源とするM6.8の地震が知られている。

しかし、それは後になってから言えることで、何が前震なのか、見抜くことは難しい。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖大地震(M9.0)の2日前にM7.3の顕著な前震があったにもかかわらず、専門家も私も、ほとんど誰もがそれが巨大地震の前震であるとは気付かなかったことからも、それは明らかだ。

たった1日ほどの断水でぼやいている荷風も、まさか1年9カ月後に巨大地震が東京を襲うとは思わなかった。

近い将来、間違いなく襲来する南関東直下型地震にも、前震的なものはあるはずだ。
それに気づく自信はないが、できるだけしっかり注意していきたい。


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