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9月2日(月)性欲研、韓国に行く(2日目の3:性欲研究会inソウル大学) [旅]

(続き)
タクシーでソウル大学へ。
ソウル大学は、韓国の最高学府であり、16の単科大学が集合した最大規模の国立大学。
単科大学の内のいくつかは、実質的に1924年創設された旧・京城帝国大学の系譜を引く。
元は、ソウル旧市街の鍾路区大学路に在ったが、学生運動が激化した1975年にソウル中心部から南に遠く離れた冠岳山の山麓(冠岳区新林洞)に強制移転させられた。
これは、学生がソウル中心部に出ることを困難にし、政府機関への大規模なデモを封殺するためと言われている。
冠岳キャンパスは、駐留アメリカ軍の広大なゴルフ場だった場所で、大学の教授会館にはクラブハウスが転用されている。
特徴的なモニュメントの正門をくぐる。
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中心エリアは素通りして、山腹をかなり上り、「国際大学院」へ。
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どうも山腹を這い上がるように新しい施設を作っているようで、周囲の環境は自然豊かと言うより、山の中に近い。
山の中に研究施設があるという点では、京都の日本文化研究センターも同じだが・・・。
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その中の「素泉・国際会議棟」(140号館)にある「日本文化研究所」の会議室をお借りした。
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13時過ぎ、「性欲研究会inソウル大学」開会。
【参加者】 
井上章一(国際日本文化研究センター)、斎藤光(京都精華大学)、古川誠(関西大学)、光石亜由美(奈良大学)、澁谷知美(東京経済大学・ソウル大学留学中)、石田仁(日工組社会安全財団)、谷口洋幸(高岡法科大学)、三橋順子。
【ゲスト】 
パク・ジョンエさん(日帝時代の公娼制度研究)
ヘンリー・トッドさん(日韓戦後期のセクシュアリティ研究)
【報告】 
光石亜由美「中島敦の小説の朝鮮遊廓体験について」
(コメント)パク・ジョンエ「朝鮮の公娼制度について」
三橋順子「『男寺党』について―朝鮮(韓)半島における性的マイノリティの歴史として―」
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研究会の途中、会場を確保にご尽力いただいたジョ・グァンジャ(趙寛子)ソウル大学日本研究所准教授が顔を見せてくださり、ご挨拶。
お礼に『性欲の研究』(平凡社)を献呈したが、なんだか戸惑われたように見えたのは気のせいだろうか。

光石さんの報告は、『山月記』『李陵』などの作品で知られる中島敦(1909~42)の小説の中に出てくる、朝鮮(ソウル)の遊廓体験の紹介と分析。
「プウルの傍で」(未定稿、1933頃)で主人公の少年三造が見た遊廓は、京城にあった「新町遊廓」と「弥生遊廓」のどちらなのか、あるいは別の場所なのか? 
「巡査の居る風景―一九二三年の一つのスケッチー」(1929)で、私娼がいた「S門外」の「S門」とはどこなのか?という検討。
「日帝時代」の公娼制度研究で博士論文を書いたパク・ジョンエさんがコメントしてくださり、活発な議論になった。
論点を整理しながら、私見をまとめておく。

(1) 朝鮮王朝には公娼制度(公認された遊廓とその管理システム)はない
これは歴史的事実としてほぼ間違いない。
ただし、朝鮮で公娼制度が存在しなかったのは、朝鮮の人たちが倫理的に清廉潔白だったからではなく、社会制度的、経済環境的に公娼制度を成立させる条件に乏しかったからだと思う。
社会制度的条件として、身分格差がきわめて大きいことがあげられる。
支配階層の「両班」は、自分の邸内に妾を抱え、さらに婢(女性の奴婢)に手を出すのも自由で、なにもわざわざ遊廓に女性を買いに行く必要などなかった。
一方、一般庶民に相当する「常人」は貧しく、遊廓に女性を買いに行く経済的余裕がなかった。
経済的条件としては、儒教的理念から商業を徹底的に蔑視した朝鮮王朝では、商品の流通、貨幣経済の発達が大きく遅れていた。
朝鮮王朝中期の粛宗代(1674~1720年)になっても、貨幣の鋳造と流通が不十分な状態だった。
(韓国時代劇「トンイ」に、貨幣鋳造工房を視察に来た王様=粛宗とトンイが出会うシーンがある)
買売春は「性」を商品とする経済行為であり、朝鮮王朝の商品経済・貨幣流通の未発達の中では、公娼制度が成立し、維持されるまでの社会・経済的段階に至っていなかったと思われる。
日本では、平安時代中・後期(10~11世紀)に遊女が集まる場所(遊里)が成立し、安土桃山時代~江戸時代初期(16世紀末~17世紀初)に遊里を集約化し権力者が管理しやすい形態として大都市に「遊廓」が作られ、公娼制度が成立する。
つまり、朝鮮王朝の経済的段階は、その後期・末期(19世紀)に至っても、遊廓を成立させた日本の江戸時代初期(17世紀初)のレベルに達していないということだと思う。
とはいえ、朝鮮王朝期にも、女性を買いたい・買える階層はいたはずで、そうした中間層は、妓生(キーセン)を買っていたと思われる。
妓生は本来、中央や地方の官庁に所属し芸能を職掌とする「官妓」(身分は賤民だが俸禄が出る)であり、基本的に、芸を売る存在であって、性を売る職業ではない。
しかし、朝鮮王朝末期の甲午改革(1894~96年)で身分制が廃止され、妓生は賤民身分から解放されたが、、同時に官妓制度も廃止され俸禄がなくなり、自活自営を迫られる。
そうした状況下で、性を売る妓生が多くなったと思われる。
(それ以前から、俸禄が不十分なため、性を売る妓生がいた)
そもそも、前近代のほとんどの時期において、芸能、飲食接客、セックスワークは三位一体で不分離であった。
芸を売ることと、性を売ることがシステム的に分離したのは、遊廓システムが発達していた日本ですら江戸時代中期の新吉原からであり、制度的分離が完成するのは明治期の芸・娼妓鑑札制になってからだ。
朝鮮王朝の段階は、芸を売ることと、性を売ることの分離以前なのだから、妓生の中に性を売るものがいたからといって、妓生全体を「公娼」とみなすことは間違いだし、意味がない。

(2)日帝時代の朝鮮の公娼制度は、日本のそれのそのままの移入である
これも、歴史的事実としてほぼ間違いない。
京城の南部(南山の北麓)の新町遊廓(1904年)、城外龍山の桃山遊廓(1906年、後に弥生遊廓)は、いずれも日本により経営され、日本人娼妓(熊本・長崎・福岡の女性の出稼ぎが多かった)が営業し、日本人男性を客とする遊廓だった。
それを管理するシステムも日本人の京城進出に合わせて、日本から移入された。
そして、日韓併合(1910)の2年後の1912年から日本の公娼制(貸座敷の認可、娼妓鑑札制、私娼の禁止)が法的に機能するようになる。
朝鮮人の娼妓が朝鮮人男性を(一部、富裕ではない日本人も)客とする遊廓は、そうした朝鮮における日本の公娼制定着後に、新町遊廓や桃山遊廓の周辺に成立していく。
遊廓とそれを支える公娼システムは、昨日見学した刑務所と刑罰システム、あるいは鉄道と運行システムなどと同様に、日本が朝鮮に持ち込んだ近代国家のシステムの1つとして理解すべきである。
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↑ 京城・新町遊廓(川村湊『ソウル 都市物語』(平凡社新書、2000年)より。元の写真は『目で見る昔日の朝鮮』国書刊行会、1986年、掲載)

(3)私娼がいた「S門外」
四周を城壁に囲まれた城郭都市である京城には、8つの門があった。
この内、S門の候補になるのは、西大門(敦義門)と南大門(崇礼門)である。
城門は決められた時間に開き、決められた時間に閉ざされる遮蔽施設である。
城壁都市をもたない日本ではなかなかイメージできないのだが、城門以外から城内に入ることはできないし、城壁を越えることは大罪だった。
したがって、人々は閉門から開門までの間、門外で待機することになり、そこの宿泊や食事の施設ができ、小さな集落が形成される。
また、開門されている時間には、城内に入る物資はすべての城門を通過する。
門を入ったところに市が立ち荷がさばかれ、城内各所に分散していく。
京城で言えば、南大門市場と東大門市場がそれである。
とりわけ、南大門の門外には、1900年漢城と仁川港を結ぶ鉄道(京仁線)の「南大門駅」(1923年に「京城駅」に改称=現在のソウル駅)が設置され、人と物資の流入路としての機能がさらに高まっていった(当初は、京釜線と京義線の接続する龍山駅の方が規模的に大きかった)。
一方、西大門を通る道は、北部の要衝、平壌府に至る幹線道路であり、1900年には門外に京仁線の起点「西大門駅」が設置されるなど重要度は低くない。
しかし、1908年には門外に刑務所が作られるなど、繁華という点では、やや南大門に比べて見劣りする。
人と物資が通過する拠点として、門の内外に盛り場が形成されていく南大門こそが、私娼が出現するエリアとしてふさわしいように思う。
南大門なら「S門」ではなく「N門」だろう、という指摘が当然出てくるが、「S」は、正式な門名である崇礼門の頭文字とするか、あるいは南=Southの暗号と考えれば問題ないと思う。

朝鮮王朝末期から日本統治下の朝鮮の買売春研究は、必ずしも十分な蓄積がなされていない。
日本人の研究では、私が知る限り藤永壯さん(大阪産業大学教授)「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に―」((『二十世紀研究』第5号、2004年12月)が最も実証的で参考になる。
http://sakuramochi-jp.blogspot.jp/2012/12/the-establishment-process-of-state.html
今回、パク・ジョンエさんの日帝時代の公娼制度についての博士論文を拝見して、とても実証的で総合的な良い論文と思った。
ぜひ、日本語に翻訳して出版してほしい。
そうすれば、この分野の研究が、大きく進展すると思う。

次に、私の報告は、朝鮮半島における移動芸能集団であり、男色集団である「男寺党」(남사당 ナムサダン)について、その芸能形態とセクシュアリについて、日本語の文献からわかる範囲で整理し、前近代の朝鮮半島におけるセクシュアル・マイノリティの存在の一形態として積極的に評価しようとしたもの。
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「男寺党」(ナムサダン)については、日本でも韓国でも、ほとんど知られていないこともあり、時間の関係もあって、質疑は不活発だった。
韓国では、異性装者や同性愛者についての歴史的研究はほとんどないとのこと。
学者・研究者が手を染めるべきテーマではないということらしい。
まあ、少し前まで(いや、今でも)日本も同様だが。
トッドさんから欧米では「セクシュアル・マイノリティという言い方は、もうしなくなっている」という指摘があり、この点はしっかり考えなければいけないと思った。
それと、トッドさんが見せてくださった1970~80年代の韓国の雑誌に掲載された女装者の記事がとても興味深かった。
韓国のトランスジェンダータレント、ハ・リス(河莉秀)は突然変異的に出現したのではなく、ちゃんと前段階があった(パイオニア的な人がいた)ということだと思う。
17時30分、閉会。
言葉の壁はあったが、それを乗り越えて有意義な研究会だったと思う。
会場設定に便宜をはかってくださったジョ・グァンジャ先生と、通訳をしてくださった澁谷さん、光石さんに感謝。
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↑ 右側の建物が会場の140号館。
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↑ 「性欲研」では珍しい記念撮影。
(続く)
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樹村

迂闊に質問するとまた叱られそうですですが。。。。

朝鮮王朝期。
古い韓国映画を多数観ると、
上層庶民(商用などで旅が出来る層)相手は「旅の宿の酌婦」(日本の飯炊き女に相当する存在?)も、"その役割"を果たしており、
中下層庶民は夜這いに依存していたように感じます。

また、20~30年ほど前。
韓国各地を貧乏旅行すると、怪しげな街では「ヨインスク」(漢字では旅人宿とも、女人宿とも書く。発音が同じなので、ハングルで書くと同じ)というものをあちこちで見かけました。韓国人の知り合いから、これらは売春宿の機能を果たしていると聞き「あそこには絶対近づくな」と警告を受けました(有名映画「鯨取り」にも出て来ます)。

これらについて扱った文献を以前探したのですが、当時は見つけることが出来ませんでした。何かご存知でしたらご教示頂けると嬉しいです。後者は、実物(女人宿と漢字で看板が出ていた)の外観を見たことがあるので実在すると思いますが。前者(飯炊き女や夜這い)は映画演出の都合かもしれず、実在したのか?やや証拠として弱いので。

また、「S大門」について。
少なくとも10年前まで、東大門の外(国鉄清涼里駅との間)には、かなり大規模な「飾り窓」街がありました(この10年くらいの間に、取り締まられたと聞いた記憶がありますが)。東大門を候補から除外されたのはなぜでしょうか。

まぁ、清涼里(東大門外)のそれは、朝鮮戦争後、北部の戦線と往復する軍人相手に発達した(いわゆるテキサスタウンなどと同じ)と聞くので、朝鮮戦争後のものかもしれませんね。
by 樹村 (2013-09-10 06:22) 

三橋順子

樹村さん、いらっしゃいま~せ。
>中下層庶民は夜這いに依存していた
そうした「性」の有り様は、中というより、はっきり下層でしょうね。
実態として「飯盛り女」や「酌婦」のような潜り売春(私娼的存在)はかなりあったと思います。
ただし、「日帝支配」後は、かなり日本の流儀の影響を受けているので、朝鮮王朝期まで遡及できるかは慎重にすべきでしょう。
ともかく、「飯盛り女」で専論書がある日本とちがって、朝鮮の「性」の実態を解明する研究は乏しいようです。

>「S大門」について
東大門外の買売春の形態は、おっしゃるとおり朝鮮戦争後ではないでしょうか。
東大門(興仁門)を候補から外したのは、単純にSの解釈がつかないからです。
by 三橋順子 (2013-09-11 09:48) 

樹村

『中というより、はっきり下層でしょう』

そうですね、映画では「農民」や「行商人」などの風習であるかのように描かれていました。中間層が薄い朝鮮王朝期なので、一番のボリューム層ではあると思いますが。

『朝鮮王朝期まで遡及できるかは慎重にすべき』

私が言っている映画というのは、朝鮮王朝期を描いた作品もあります。でも、おっしゃるとおり、日本の影響を受けている可能性はありますね。日本だって、喪服が昔っから一貫して黒かったと勘違いしている人って多いし。

なので、この件を扱った、素人の私でも読めるような本があれば、と思ったのですが...

『朝鮮の「性」の実態を解明する研究は乏しいようです』

あぁ、やっぱり。実は、ネットで某韓国系新興宗教(アレです)信者の子に「韓国は、昔っから性的に清い国なんだっ!日本と一緒にするなっ!そうでないと言うなら、何か本で証拠を示せっ!」と絡まれて、順子さまのように(研究は乏しいと)答えたのですが、納得させることが出来ず...

とまれ、ご教示ありがとうございました。

『Sの解釈』

韓国人の知人(現在80歳くらい?)が、南大門(崇礼門)のことを「スンレデムン」(崇礼大門)と呼んでいたことを思い出しました。

この呼び方が一般的なのか?は分かりませんが、もしそうなら、Southでなく、こちらのSかもしれませんね。
by 樹村 (2013-09-13 09:44) 

三橋順子

>朝鮮王朝期を描いた作品
韓国映画の時代考証がどれほど厳密か?ということです。
朝鮮王朝期にも日本でいう「飯盛り女」的な旅人の相手をする女性や、「酌婦」のような潜り売春(私娼的存在)はあったと思います。
ただ、そもそも日本の江戸時代のように商人や庶民が盛んに旅をする社会状況ではなかったはずで、日本のような発達の仕方はしていないと思います。

>「昔っから性的に清い国なんだ」
これは現代の韓国人や親韓的な日本人にかなり共有されている認識だと思います。
私は、そういう思い込みは、少なくとも学問ではないと思っています。

>南大門(崇礼門)のことを「スンレデムン」
その可能性は、もちろん考えています。

by 三橋順子 (2013-09-13 14:01) 

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