エドワード・モース『日本その日その日』 [読書]
8月14日(水)
この数日、やっと夏休み気分になったものの、外はあまりに暑いので、外出は控え、普段、気ぜわしくて読めなかった本を読んでいる。
昨日からは、モース博士の日本滞在記『日本その日その日』(講談社学術文庫 2013年6月)を読んでいる。
エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838~1925年)は、アメリカの動物学者(専門は腕足類)。
1877年(明治10)6月、39歳のときに腕足動物の種類が多く生息する日本で標本を採集するため横浜に到着。
採集の許可を求めるため横浜から東京の文部省に赴く途中、汽車の窓から大森貝塚を発見する。
訪問先の文部省で東京大学の初代動物学・生理学教授への就任を請われて受諾。
日光への採集旅行、江ノ島臨海実験所の設置、日本初の学術的発掘となる大森貝塚の調査、日本初となるダーウィンの「進化論」の本格的な講義、公開講演などを行った。
11月、いったん帰国して準備を整え、1878年(明治11)4月、家族を伴って東京大学に帰任。
数々の講義や公開講演を通じて、日本の動物学の基礎を築くとともに、多くの研究者を育てた。
また、物理学のトマス・メンデンホール、哲学のアーネスト・フェノロサなど専門知識を持つ外国人教授の招聘に尽力、大量の書籍を東京大学図書館に寄贈するなど、草創期の東京大学の基盤整備に大きな役割を果たした。
しさらに、日本の考古学や民俗学の草創にも影響を与えた。
この間、北海道、長崎・鹿児島と日本の南北を調査旅行している。
1879年(明治12)8月末、東京大学教授を満期退職し、9月3日離日した。
1882年(明治15)(44歳)6月、日本美術研究家のビゲロー(William Sturgis Bigelow)を伴って3度目の来日。
各地で講演するとともに、7月下旬から9月上旬まで、フェノロサ、ビゲロ-らと、京都から瀬戸内海方面にへ陶器・民具・武具・書籍などを収集する旅行をした後、1883年2月に離日した。
帰国後は、セイラムの『ピーボディー科学アカデミー』(1992年以降のピーボディ・エセックス博物館)の館長となり、アメリカ科学振興協会の会長などを務めながら、日本とアメリカの学術・文化交流に尽力した。
その功績により、1922年(大正11)、日本政府から勲二等瑞宝章を授けられた。
1925年(大正14)、セイラムの自宅で逝去、87歳。
その蔵書12000冊は、遺言により関東大震災(1923年)で壊滅した東京大学図書館に寄贈された。
『Japan Day by Day』(日本語訳題『日本その日その日』)は、1913年、75歳になったモースが、30年以上前の日記(明治10~12、15~16年)とスケッチをもとに執筆し、1917年に刊行された日本滞在記。
その12年後の1929年(昭和4)にモースの弟子である動物学者・東京大学農学部教授石川千代松(1860~1935)の子石川欣一(1895~1959)によって全訳が科学知識普及会から刊行された。
その後、1939年(昭和14)、2章を除いて「創元選書」の1冊として刊行された。
講談社学術文庫版は、これをもとにしている。
このほか、1970~71年に平凡社から刊行された「東洋文庫」版の3冊本がある。
学生の頃に拾い読みしたはずだが、当時と今では私の関心が全く違うので、あまり覚えていない。
この滞在記のなによりの魅力は、科学者の客観的で冷静な視線で記録された、江戸の気風が色濃く残る瑞々しい明治初期日本の姿。
そして、庶民の生活と文化に向けられたモース博士の旺盛な関心とあたたかな視線が、この滞在記をより楽しいものにしている。
モース博士は、日本の街の清潔さ、人々の正直さ、明朗さ、礼儀正しさ、心遣いに敬意を抱くとともに、そうした気質が上・中流階層だけでなく、人力車夫や船頭などの社会の下層に属すると思われる人々にまで及んでいることに驚く。
そして「自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を日本人は生まれながらに持っているらしい」とまで言う。
ちょっと褒め過ぎではないかと思わないわけではない。
しかし、裏返せば、近代文明にはさまざまな悪徳が伴っていて、明治10年前後の日本はまだその影響をあまり受けていなかったということだろう。
それから間もなくして日本も近代の悪徳にとっぷりと染まっていくことになる。
だからこそ、現代の私たちから見ても、モース博士が見た日本は貧しくても限りなく美しいのである。
私の関心である性風俗史は、モース博士がきわめて真面目な方であるため、残念ながら関係する記述は少ない。
それでも、博士が来日した明治10年の夏、横浜の艀(はしけ)人足や人力車夫のような肉体労働者の男性は、「犢鼻褌(ふんどし)だけを身につけ」て働いていたこと(11頁)、「往来のまん中を誰はばからず子供に乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける」こと(16頁)、旅人たちの「中の娘二人が肌を脱いで泉に身体を拭きに行った」こと、そして外国男性が「見ているのに気がつくと」「外国人がこんな動作を無作法と考えることを知って、恥ずかしそうに、しかし朗らかに笑いながら、肌を入れた」こと(54頁)などが『記されている。
こうした江戸時代以来の日本人の裸体感覚は、1872~73年(明治5~6年)の「裸体禁止令」(「違式註違条例」の裸体往来禁止の条)以降も、実態的にはそれほど変わっていないことがわかり、資料として貴重。
泉で水浴する娘たちは、男性に肌を見られたことを恥ずかしいと思っているのではなく、外国人が嫌う無作法(女性が肌を見せること)をしてしまったことを恥じている。
だから現代の女性のように悲鳴を上げて逃げるのではなく、朗らかに笑っていられるのだ。
女性には関心を示さないモース博士だが、なぜか女性の髪形には関心があったようで、女髪結に髷を結ってもらっている婦人(46頁)と、「最新流行の髷」(232頁)の2枚のスケッチを残している、
後者は前後から丁寧にスケッチしていて、よほど関心があったのだと思う。
(他にもちょん髷のスケッチ集もある)
↑ これは鉄漿(おはぐろ)をつける婦人。
私は、日本の近世から近代への転換、そして日本の伝統的な習俗や文化を相対化するためには、来日外国人の記録は欠かせないと思っているので、かなり集めている。
ただ、なかなかじっくり読む時間がとれない。
いつになったら、そういう時間が取れる日が来るだろうか。
この数日、やっと夏休み気分になったものの、外はあまりに暑いので、外出は控え、普段、気ぜわしくて読めなかった本を読んでいる。
昨日からは、モース博士の日本滞在記『日本その日その日』(講談社学術文庫 2013年6月)を読んでいる。
エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838~1925年)は、アメリカの動物学者(専門は腕足類)。
1877年(明治10)6月、39歳のときに腕足動物の種類が多く生息する日本で標本を採集するため横浜に到着。
採集の許可を求めるため横浜から東京の文部省に赴く途中、汽車の窓から大森貝塚を発見する。
訪問先の文部省で東京大学の初代動物学・生理学教授への就任を請われて受諾。
日光への採集旅行、江ノ島臨海実験所の設置、日本初の学術的発掘となる大森貝塚の調査、日本初となるダーウィンの「進化論」の本格的な講義、公開講演などを行った。
11月、いったん帰国して準備を整え、1878年(明治11)4月、家族を伴って東京大学に帰任。
数々の講義や公開講演を通じて、日本の動物学の基礎を築くとともに、多くの研究者を育てた。
また、物理学のトマス・メンデンホール、哲学のアーネスト・フェノロサなど専門知識を持つ外国人教授の招聘に尽力、大量の書籍を東京大学図書館に寄贈するなど、草創期の東京大学の基盤整備に大きな役割を果たした。
しさらに、日本の考古学や民俗学の草創にも影響を与えた。
この間、北海道、長崎・鹿児島と日本の南北を調査旅行している。
1879年(明治12)8月末、東京大学教授を満期退職し、9月3日離日した。
1882年(明治15)(44歳)6月、日本美術研究家のビゲロー(William Sturgis Bigelow)を伴って3度目の来日。
各地で講演するとともに、7月下旬から9月上旬まで、フェノロサ、ビゲロ-らと、京都から瀬戸内海方面にへ陶器・民具・武具・書籍などを収集する旅行をした後、1883年2月に離日した。
帰国後は、セイラムの『ピーボディー科学アカデミー』(1992年以降のピーボディ・エセックス博物館)の館長となり、アメリカ科学振興協会の会長などを務めながら、日本とアメリカの学術・文化交流に尽力した。
その功績により、1922年(大正11)、日本政府から勲二等瑞宝章を授けられた。
1925年(大正14)、セイラムの自宅で逝去、87歳。
その蔵書12000冊は、遺言により関東大震災(1923年)で壊滅した東京大学図書館に寄贈された。
『Japan Day by Day』(日本語訳題『日本その日その日』)は、1913年、75歳になったモースが、30年以上前の日記(明治10~12、15~16年)とスケッチをもとに執筆し、1917年に刊行された日本滞在記。
その12年後の1929年(昭和4)にモースの弟子である動物学者・東京大学農学部教授石川千代松(1860~1935)の子石川欣一(1895~1959)によって全訳が科学知識普及会から刊行された。
その後、1939年(昭和14)、2章を除いて「創元選書」の1冊として刊行された。
講談社学術文庫版は、これをもとにしている。
このほか、1970~71年に平凡社から刊行された「東洋文庫」版の3冊本がある。
学生の頃に拾い読みしたはずだが、当時と今では私の関心が全く違うので、あまり覚えていない。
この滞在記のなによりの魅力は、科学者の客観的で冷静な視線で記録された、江戸の気風が色濃く残る瑞々しい明治初期日本の姿。
そして、庶民の生活と文化に向けられたモース博士の旺盛な関心とあたたかな視線が、この滞在記をより楽しいものにしている。
モース博士は、日本の街の清潔さ、人々の正直さ、明朗さ、礼儀正しさ、心遣いに敬意を抱くとともに、そうした気質が上・中流階層だけでなく、人力車夫や船頭などの社会の下層に属すると思われる人々にまで及んでいることに驚く。
そして「自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を日本人は生まれながらに持っているらしい」とまで言う。
ちょっと褒め過ぎではないかと思わないわけではない。
しかし、裏返せば、近代文明にはさまざまな悪徳が伴っていて、明治10年前後の日本はまだその影響をあまり受けていなかったということだろう。
それから間もなくして日本も近代の悪徳にとっぷりと染まっていくことになる。
だからこそ、現代の私たちから見ても、モース博士が見た日本は貧しくても限りなく美しいのである。
私の関心である性風俗史は、モース博士がきわめて真面目な方であるため、残念ながら関係する記述は少ない。
それでも、博士が来日した明治10年の夏、横浜の艀(はしけ)人足や人力車夫のような肉体労働者の男性は、「犢鼻褌(ふんどし)だけを身につけ」て働いていたこと(11頁)、「往来のまん中を誰はばからず子供に乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける」こと(16頁)、旅人たちの「中の娘二人が肌を脱いで泉に身体を拭きに行った」こと、そして外国男性が「見ているのに気がつくと」「外国人がこんな動作を無作法と考えることを知って、恥ずかしそうに、しかし朗らかに笑いながら、肌を入れた」こと(54頁)などが『記されている。
こうした江戸時代以来の日本人の裸体感覚は、1872~73年(明治5~6年)の「裸体禁止令」(「違式註違条例」の裸体往来禁止の条)以降も、実態的にはそれほど変わっていないことがわかり、資料として貴重。
泉で水浴する娘たちは、男性に肌を見られたことを恥ずかしいと思っているのではなく、外国人が嫌う無作法(女性が肌を見せること)をしてしまったことを恥じている。
だから現代の女性のように悲鳴を上げて逃げるのではなく、朗らかに笑っていられるのだ。
女性には関心を示さないモース博士だが、なぜか女性の髪形には関心があったようで、女髪結に髷を結ってもらっている婦人(46頁)と、「最新流行の髷」(232頁)の2枚のスケッチを残している、
後者は前後から丁寧にスケッチしていて、よほど関心があったのだと思う。
(他にもちょん髷のスケッチ集もある)
↑ これは鉄漿(おはぐろ)をつける婦人。
私は、日本の近世から近代への転換、そして日本の伝統的な習俗や文化を相対化するためには、来日外国人の記録は欠かせないと思っているので、かなり集めている。
ただ、なかなかじっくり読む時間がとれない。
いつになったら、そういう時間が取れる日が来るだろうか。
2013-08-14 23:07
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コメント(4)
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おお、大森貝塚で有名なモース博士ですにゃ。
モースのコレクションは膨大なもので、その一部を江戸東京博物館で
見た事がありますにゃん。
by 真樹猫ちゃん (2013-08-15 00:37)
真樹大姉様、いらっしゃいま~せ。
モース先生の『日本その日その日』にはたくさんのスケッチが収録されていますが、中に怪しい巫女のような人物が・・・。
誰かに似ている・・・と思っていたのですが、大姉様でしたか(納得)
by 三橋順子 (2013-08-16 19:37)
わたしもそういうのじっくりと読みたいです。ただわたしも余裕がないです。
by 安井美由紀 (2013-10-15 04:42)
安井美由紀 さん、いらっしゃいま~せ。
はい、何を調べるというわけではなく、ただ読んで考える読書がしたいですね。
by 三橋順子 (2013-10-19 06:20)