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6月9日(日)初めての沖縄(3日目の2:首里城・南海の王城) [旅]

(続き)
首里城は、1429年三山を統一して琉球王朝を立てた尚巴志王(第一尚氏王統第2代、在位1421~1439年)が居城として以来、1879年の「琉球処分」で最後の琉球国王尚泰王(第二尚氏王統19代、在位1848~1872年)が退去するまで、琉球王朝450年の王城である。
沖縄戦では、首里城の下に掘られた地下壕をに日本陸軍第32軍総司令部が置れていたことで、1945年5月25日から3日間にわたって、アメリカ海軍の戦艦ミシシッピなどの艦砲射撃を受け、徹底的に破壊された。
さらに戦後、琉球大学のキャンパスが置かれたため、残った遺構が撤去されたり埋設されたりした。
1979年(昭和54)に琉球大学が移転し、1980年代になってようやく沖縄県や国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。
1992年(平成4)11月、正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門、城壁などが再建され「首里城公園」として開園。
2000年(平成12)には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された。

首里城の正門(大手門)「守礼門」。
琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)の代に建てられた三間牌楼形式の中国様式の門。
沖縄戦で焼失し、1958年に再建された。
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扁額の「守禮之邦」は、宗主国である明・清王朝の「礼」を「守」る「邦」の意味。
実際、明・清王朝の冊封使が来琉した際には、琉球国王はこの門まで出迎え三跪九叩頭の礼をとった。
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私は守礼門の存在を、子供の頃、集めていた切手で知った。
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以来50年、ようやく守礼門をくぐることができて感激だった。
守礼門を入った左側にある園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)の石門。
園比屋武御嶽は、国王が国内巡行に出る際に必ず拝礼した場所で、また聞得大君が就任する時にもまず最初に拝礼した、王朝の聖地。
石門と言っているが、人が出入りするものではなく、むしろ拝所に近い。
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首里城は、軍事拠点としての城(グスク)の性格と、政治拠点としての王宮の性格を併せ持っている。
標高120~125mほどの東西に細長い隆起石灰岩の台地の上に立ち、日本の城の形態分類からすると「平山城」ということになる。
「歓会門」。大きく湾曲した城壁に開くアーチ型石積の城門。
その上に木造の櫓が載る。
日本の戦国~江戸初期の城だったら、門の前に枡形を構えるところだが、そうした防衛機能はほとんど意識されていないように見える。
これでは、1609年の薩摩島津氏の琉球侵攻に対して、為す術がなく開城してしまったのはわかる。
戦国乱世を生き抜き、さらに朝鮮出兵で激戦を重ねた百戦錬磨の薩摩兵にとって、首里城を抜くのはたやすいことだったと思う。
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瑞泉門の右下には湧水があり「瑞泉」と呼ばれている。
石製龍頭の「龍樋」は1523年に明からもたらされたもの。
水の手がここにあるというのも、防衛機能的にはよろしくない。
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櫓門形式の瑞泉門。
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さらに漏刻(水時計)あった漏刻門をくぐり、広福門の前庭に達する。
ここからは遠く那覇港が望める。
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下之御庭(しちゃぬうなー)にある首里森御嶽(すいむいうたき)。
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下之御庭は王宮に入る前の控え場所であり、ここから王宮の正門にあたる奉神門をくぐって御庭(うなー)に入る。
御庭は東西40m、南北44m、やや歪んだ方形の儀礼空間。
正面に琉球王が居住する正殿が西面して建つ。
正殿は、石積の基壇上に立ち、正面29m、側面17m、大棟までの高さ16m。
内部は3層構造になっている。
彩色や装飾はまったく中国の宮殿風だが、全体的な構造、とりわけ正面に大きな唐破風(からはふ)を付けるところは日本建築の影響が強い。
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正殿の正面部分が、改修作業中でちょっと残念。
でも、やっと来られてうれしかった。
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唐破風の妻飾りは極彩色の中国風。
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龍頭の棟飾り。日本の宮殿建築なら鴟尾(しび)が載るところ。
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石階段前の大龍柱。これは向かって右側(阿形)。これも日本の宮殿建築にはない装飾。
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書院・鎖之間庭園。丘の上で水がないので、池はない。
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正殿1階「下庫理(シチャグイ)」は琉球王の政治空間で、中央に玉座・御差床(うさすか)が設けられている。
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御座の背後には階段があり、王は出御のときこの階段を降りてきて御座に就く。
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中国や日本の宮殿では、皇帝や天皇の出御は平面移動であり、琉球王のような立体的な移動は聞いたことがない。
これは、中国でも日本でも、皇帝・天皇の日常の生活空間(日本の平安宮なら清涼殿)と、儀礼空間(同じく紫宸殿)は平面に並んでいるが、首里城正殿1階が儀礼空間、2階が生活空間になっているからだろう。
その理由としては地形的な狭隘さが考えられるが、他にも何か理由があるのだろうか。
正殿2階の「大庫理(シチャグイ)」。
琉球王の生活空間であり、1階より装飾がきらびやかである。
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扁額は御座の上、中央の間に清の康熙帝から賜った「中山世土」(ちゅうざんせいど)、向かって右に雍正帝の「輯瑞球陽」(しゅうずいきゅうよう)、左に乾隆帝の「永祚瀛壖」(えいそえいぜん)。
清王朝の全盛を築いた三代の皇帝の書がもし現存すれば、文化財的に貴重だが、残念なことにすべて沖縄戦で失われ、現在のものは復元。
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復元模型。御庭に琉球王の臣下が並んでいる。
御庭に敷かれた磚(焼成レンガ)が縞状になっているのは、位の順に並ぶ臣下が自分が位置するポジションを間違えないようにする工夫。
中国や日本の宮殿の朝庭では版位(へんい)という板状の物(中国では磚、日本では木製)を置いて官人が列立する際の標識にした。
朝鮮王朝の昌徳宮では固定式の石柱で示している。
磚を縞状にするのは、琉球王宮の独自の工夫かもしれない。
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朝庭の大きさは、明・清の紫禁城・太和殿前庭が長さ120m×幅190m、日本の平城宮が長さ260m×幅200mで格段に大きく、琉球首里城は40m×44mは、朝鮮王朝の昌徳宮の40m×65mに近い。
皇帝・天皇の宮殿と王の宮殿の格の違いということ。
宮殿の見学を終えて帰路につく。
いろいろ考えることが多く、とても勉強になった。
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右腋門(うえきもん)。
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久慶門。
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気温32度、南国の日差しは肌を差すように厳しい。
少し疲れてしまい、「首里杜館(すいむいかん)」の中の喫茶店で休息。
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せっかくの機会なのでgid.jpの幹部のお二人に、今後の自助支援グループのあり方について、私見をお話しする。
16時、半日、案内してくださったお二人にお礼の握手をして別れる。
ありがとうございました。
(続く)

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