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戦中戦後の買売春関係年表(東京中心) [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

5月17日(金)
あちこちで、歴史的経緯を無視した議論があまりに目立つので、戦中戦後の買売春関係(東京中心)の年表を作ってみた。。
(以前、作ってあったものに手を加えただけだが)

注目点は、戦争末期の1944~45年8月に「産業戦士のため」と称する慰安施設があちこちに設置されていること。
また、アメリカ軍の空襲で壊滅した「新吉原」の再建がすばやくなされていること。
これらは、当時の行政の実権や物資の蓄積・流通の在り方を考えれば、軍の指示・了解・支援(軍需物資の提供)のもとでなされたことが容易に想像できる。
接取された洲崎や、空襲で被災した新吉原、玉の井、亀戸の売春業者(楼主)の面倒を軍がちゃんとみていることがわかる。
公認の遊廓だった新吉原と洲崎はともかく、私娼窟だった玉の井、亀戸までも、というのは、驚きですらある。
それだけ、軍と売春業者との関係は密接だったということだ。
こうした内地における軍と売春業者の密着を考えれば、外地や戦地ににおいて何が行われたかは、ある程度、推測がつくというもの。

そして、それらの「産業戦士向け」慰安施設は、1945年8月15日の敗戦直後から「占領軍向け」の慰安施設(RAA傘下)に一斉に転用されていく。
さらに、1946年3月に占領軍兵士の「Off Limits」の措置が取られると、ほぼそのまま、同年12月に成立する日本人向けの「特殊飲食店」(実質的な売春施設)地区(「赤線地区)に転化していく。

つまり、相手は日本人兵士・産業戦士→占領軍兵士→一般日本人と変遷するものの、女性との性行為によって男性を慰安することで治安を維持し、社会の安定をはかるという施策は一貫していた。
中には、そこでずっと働いていて、「客」の変遷を身をもって経験した女性もいたのではないだろうか。
彼女たちは、こうした男たち(政府)の身勝手な施策の変転をどう感じたのだろうか?
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1943年(昭和18)
12月  軍事工場の産業戦士の寮に転用するため「洲崎遊廓」を接収。

1944年(昭和19)
1月10日 産業戦士慰安施設を立川「錦町」に設置(業者は洲崎から移転)。
8月 6日 産業戦士慰安施設を立川「羽衣町」に設置(業者は洲崎から移転)。

1945年(昭和20)
3月10日 東京大空襲。「新吉原遊廓」、私娼窟「玉の井」「亀戸」など全焼、壊滅。
5月19日 産業戦士慰安施設を「向島」(後の「鳩の街」現:墨田区)に設置(業者は玉の井から)。
5月25日 東京山の手大空襲で「新宿遊廓」全焼、壊滅。
6月 6日 産業戦士慰安施設を「立石」(現:葛飾区)に設置(業者は亀戸から)。
6月13日 「新吉原」再建・復活。
7月19日 産業戦士慰安施設を「武蔵新田」(現:大田区)に設置(業者は洲崎から)。
8月15日 日本、敗戦。
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8月18日 警視庁保安課が遊廓代表者を集めて進駐軍の慰安施設の設置について協議。
      内務省警保局長から「外国軍駐屯地における特殊慰安施設について」を通達。
8月19日 慰安施設を「亀有」(現:葛飾区)に設置(業者は玉の井から)。
8月19日 慰安施設を「新小岩」(現:江戸川区)に設置(業者は亀戸から)。
8月26日 占領軍に慰安を提供するR.A.A(Recreation and Amusement Association =特殊慰安施設協会)設立。資本金1億円(半分は日本政府の融資)。
      第1回の接客婦募集に応募者殺到、1360名を採用。
8月28日 テンチ米陸軍大佐率いる150名の日本進駐軍先遣隊が横浜に上陸。
      → 連合軍による日本占領の開始
 同日   東京都品川区大森海岸にR.A.Aの進駐軍専用慰安施設「小町園」開業。
8月29日 小町園の19歳の従業婦が京浜急行の電車に飛び込み自殺。元三井銀行の事務員で「女子事務員募集」「宿舎、被服、食糧全部当方支給」につられて応募。
8月30日 ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官(アメリカ陸軍元帥)が厚木飛行場(神奈川県)に到着。
 同日  横須賀にアメリカ海兵隊7500人が上陸。
 同日  横須賀で(少なくとも)アメリカ兵による2件の婦女暴行事件が発生、日本人女性3人が被害。
8月31日 千葉県館山市にアメリカ海兵隊240人が上陸。
9月1日  館山市で3人のアメリカ兵が日本人主婦を暴行する事件が発生。
9月2日 横浜市山下町のRAA慰安施設「互楽荘」(9月1日開業)でアメリカ兵による日本人従業婦絞殺事件が発生。犯人はMP(Military Police=米軍の憲兵)により射殺。「互楽荘」は即日閉鎖。
9月 3日 連合軍東京多摩地区に進駐。 
9月 5日 多摩地区最初のR.A.A進駐軍専用慰安施設「福生営業所」開業。
9月8日 連合国軍、東京に進駐。最高司令官総司令部(GHQ)を千代田区有楽町の第一生命館に設置。
9月11日 GHQ性病予防対策会議。軍衛生隊による調査で日本人売春婦の梅毒罹患率50%、淋病75%との報告。
9月22日 GHQ公衆衛生局長サムス大佐が「公衆衛生対策に対する覚書」を出し、防疫対策を指令。
 同日  GHQ性病担当官ゴードン軍医中佐がマニラから着任。
9月29日 ゴードン中佐、サムス局長、ブルース・ウェブスター軍医大佐(米太平洋陸軍軍医総監デニット准将の代理)、第八軍(米日本占領軍)衛生部及び憲兵隊代表などが会議。性病予防は売春を防止する以外ないが「日本の売春防止対策は無きに等しい」という見解で一致。
10月16日 GHQ、性病対策を指示。
10月20日 RAAの進駐軍高級将校用接待施設「迎賓館・大倉」(向島)開業。
11月1日 花柳病予防法特令公布。
11月   RAAの進駐軍将校用接待施設「RAAクラブ」(世田谷・若林)、「ドリームランド(夢の園)」(千葉県市川市)開業。
11月15日 「亀戸」(現:江東区)再建・復活
11月28日 江戸川区小岩に精工舎の男子寮を転用した進駐軍専用慰安施設(非R.A.A系)「インターナショナル・ハウス」(後の赤線「東京パレス」)開業。
12月28日 「洲崎」(現:江東区)再建・復活。

1946年(昭和21)
1月    進駐軍が兵士の娼館への立ち入りを禁ずる「Off Limits」の措置を取り始める。
1月17日 「玉の井」(現:墨田区)再建・復活。
1月21日 GHQが「公娼制度廃止に関する覚書」を出す。
1月28日 警視庁が第1回街娼摘発(「狩り込み」)を実施。
2月 2日 内務省が「娼妓取締規則」など公娼制度関係法規の撤廃を通達(20日実施)。
      → 戦前の遊廓システムの廃止
同日  東京で初めての街娼一斉取締(検挙者18名)
3月26日 連合国軍東京憲兵司令官官房が兵士のR.A.A施設への立ち入りを禁ずる通達「進駐軍ノ淫売窟立入禁止ニ関スル件」(Off Limits令)を出す。
3月27日 R.A.Aの進駐軍専用慰安施設21か所を閉鎖。 
4月22日 R.A.Aの慰安部門が解散。
8月   増加する街娼に対し、全国で大規模な摘発(狩り込み)を実施(東京都の検挙者307名)。
11月14日 第一次吉田内閣次官会議で「私娼の取締並びに発生の防止及び保護対策」を決定。
     特殊飲食店の指定、特殊飲食店の地域限定・集団(集娼)化の方針を定める。
      →「赤線」システムの発案
12月 2日 地方長官に対し「最近の風俗取締対策について」を通達。
     各地で「特殊飲食店」を公認し、地域を指定。 
      → 「赤線地帯」の成立

1947年(昭和22)
1月15日 「婦女に売淫させた者等の処罰に関する勅令」(勅令九号)公布。
      売春に従事する契約を禁止し処罰を規定する。
      → 管理売春の法的禁止。ただし「赤線」は規制対象外。

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マミー

戦後の米兵と結婚なさったおばあちゃんたちを数名知っています。
今、彼女たちはアメリカで孫、ひ孫に囲まれ悠々自適の生活を送っていらっしゃるみたいですが、口々に『本当に食べる物が何もなかった』とおっしゃいます。一人は北方領土からロシアにせめてこられ、着の身着のままで真っ暗な海を小さな漁船にみんなで乗って北海道まで逃げた。家も土地もみんな取られたそうです。もう一人は台湾から。日本の敗戦が報じられるや否や、中国軍が何十人と土足で家に入り込み鍋釜、家財道具全部取られた。最期の船で命からがら横浜まで逃げて来たそうで、こちらもまた一文無し。私達が想像するより遥かに日本は悲惨だったようです。一家食うに困って売春する人も。米兵と結婚した人達は美しいドレスで着飾り、素敵なハイヒール。夜はステーキのディナー。かたやゴミあさり。こんな話をたくさん聞きました。歴史の証人となる方達も、最近ではどんどん減って来ています。
by マミー (2013-05-18 03:32) 

三橋順子

マミーさん、いらっしゃいま~せ。
>口々に『本当に食べる物が何もなかった』とおっしゃいます。
庇護してくれるはずの両親や夫を戦争で失い、幼い弟妹、あるいは子供をかかえて、ともかく食べなければならない状況で、取り立てて技術もない女性の生きる術が他になにがあったか?
その点、現代の多くの人はあまりに想像力が貧しいです。
女性が生きていくために身を売るということは、程度の差はあれ心に傷を残すことはいうまでもありません。
それでも、生き抜いて、今、現在穏やかな余生を過ごされているのなら、ほんとうに何よりだと思います。
>歴史の証人となる方達も、最近ではどんどん減って来ています。
ほんとうにそうなのです。それぞれの専門分野でできるだけ多くのお話を記録しなければいけないのですが、そうした意識をもつ研究者がまだまだ少ないのが残念ながら実情です。
by 三橋順子 (2013-05-19 00:58) 

真魚

初めまして。楽しく読ませていただいております。

ところで、「R.A.Aの施設」での性病の蔓延ということを別の論考で言われていましたが、この論拠となる資料はどういうものなのでしょうか?
逆に性病は、海外から輸入されたものだと主張する人もいるのでご質問させていただきました。
by 真魚 (2013-05-19 09:55) 

三橋順子

真魚 さん、いらっしゃいま~せ。
RAAの実態を最も詳細に記しているのは。小林大治郎・村瀬明『みんなは知らない-国家売春命令-』(雄山閣 1961年11月)です。「新版」が 2008年に出ています。
またGHQ側の性病対策については、ドウス昌代『マッカーサーの二つの帽子―特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』(講談社文庫、1985年、原書名は『敗者の贈物-国策慰安婦をめぐる占領下秘史』講談社、1979年)が詳細です。
RAAにおける性病蔓延の件は、戦前の日本の「遊廓」において性病管理がそれなりに機能していたことを考えると、たしかに不思議で、だからこそ「日本政府による意図的な性病拡散」説とか、「日本女性たちの私的報復」説が出てくるのだと思います。
取りあえず考えられるのは、以下の2つだと思います。
1)敗戦直前の社会情勢下で遊廓システムが機能停止してしまい、RAAの従業婦の多くを占める元娼妓たちの性病管理が不十分になっていた。
2)南方の占領地から日本に進駐したアメリカ軍兵士が性病を持ち込み、それがRAAで増殖した。
1945年9月11日のGHQ性病予防対策会議で、軍衛生隊による調査で日本人売春婦の梅毒罹患率50%、淋病75%という数字が報告されているので、これを信じれば、上記の1)が主因だった可能性大です。
いずれにしても、多数のアメリカ軍兵士の相手をせざるを得なかったRAAの従業婦の性病管理が、医師や薬品の不足で不十分であったことは間違いなく、その最大の被害者は従業婦たちということだと思います。


by 三橋順子 (2013-05-19 13:37) 

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