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新宿二丁目・太宗寺閻魔堂玉垣の新宿遊廓の妓楼名 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

11月15日(木)

先日(11月11日)、「性欲研究会 in 東京」(主宰:井上章一国際日本文化研究センター教授)の巡見で、久しぶりに新宿二丁目の太宗寺を訪れた。
その際、閻魔堂を囲む玉垣に、新宿遊廓の妓楼名が彫られていることに気付き、皆で手分けして調査した。

この玉垣は、昭和8年(1933)4月16日の竣工で、7店ほどの妓楼の名が確認できた。

新宿遊廓は、それまで甲州街道(新宿通り)沿いに散在していた妓楼が集団移転し、大正11年(1922)春に新宿二丁目(新宿通りと靖国通りに挟まれた現在の新宿二丁目と三丁目にまたがる地域)に開業した。
関東大震災(1923)後、西に向かって膨張する東京の新しい盛り場として急速に発展した新宿のモダン遊廓として賑わったが、昭和20年(1945)5月25日の山の手大空襲で全焼して地上から姿を消した。

新宿遊廓は、新吉原遊廓に比べて資料の残りが悪く、妓楼の名も一覧表がなく、すべて明らかではない。

太宗寺閻魔堂の玉垣は、地上にほとんど痕跡を残していない新宿遊廓の貴重な遺物であり、歴史資料である。

以下、写真をアップし、現在、判っている範囲のことをまとめておく。

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(左)「昭和八年四月十六日」、(右)不二川楼本店
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(左)第一不二川楼、(右)第二不二川楼
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(左)港楼本店、(右)第一港楼
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(左)新港楼、(右)金森楼支店
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このマークは「志ん宿」をデザイン化したもの。

新宿遊廓の中心を南北に貫く「大門通り」が現在の新宿3丁目「要通り」に相当する。
また、新宿通りから要通りに入ってすぐの東西路が遊廓の南側の境界になる。

以下、玉垣に名があった楼で、所在が明確なものについて述べる。

大門(実際に門はなかった)を入って左側2軒目に「第一不二川楼」があった。
(現在の7番地、1990年代にニューハーフ・スナック「梨紗」があった「コリンズビル」があったあたり。現在は駐車場)

その北側、つまり3軒目が「不二川楼本店」。
(現在の7番地と10番地の境の道路)

そこから4軒目(大門から7軒目)に「「第二不二川楼」があった。
(現在の10番地北側、中華料理の「九龍」があるあたり)

大門を入って右側の4軒目に「第一港楼」があった。
「不二川楼本店」の向かい側である。
(現在の8番地と9番地の境の道路)

右側7軒目の「金波楼」の角を右に曲がると、(「金波楼」を入れて)4軒目に「港楼」があった。
これが「港楼本店」に相当すると思われる。
(現在、御苑大通りの路面)
ちなみに玉垣には名がないが「第二港楼」が大門入って右側2軒目(「第一不二川楼」の前)にあった。

「金森楼支店」については、「港楼」の隣り(曲がり角から5軒目)に「金森楼」があった。
(現在、御苑大通りの路面)
これが「本店」だとすると、「支店」の場所は不明である。

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